「人生を変えたいんだ」という思いに対し、大まかに二つのリアクションがある。
変わる。という意見がある。
変わらない。という意見がある。
後者の場合、議論にならない。人間の意志では人生は変わらない。すべては生まれた時点(あるいは5~6歳まで)に決まっていて、変更は不可。後は機械仕掛け。トン、トン、トン、ベルトコンベアで運ばれ、墓場にフィニート。
だけどぼくは変わると思う。初期設定(または幼少時の環境、教育)は極めて重大なファクターであり、それをひっくり返すのはとても難しいけれど、変わる。いや、変える。そういう視点に立たないと人生はおもんない。じゃない?
よし。変わろう。変わるとは何か? 現在地の更新である。が、そもそも時間は現在の場所を刻一刻と変えていく。「変わろう」と思った気持ちは一瞬で過去になる。その気持ちをキープし続けなければいけない。しかし、揺れ動くのが気持ちの常。どうすればいいか? 「更新」を常態化するしかない。そして更新のポジティブな成果、成功体験を積み上げていくしかない。
たとえばダイエットを例にとろう。ダイエットに必要なのは、目的意識と節制、有酸素運動。代謝を上げ、消費カロリーを増やす。誰でも痩せる。しかし、成功体験を積み上げていった矢先に、もう頑張ったからいいや。自分にご褒美をあげよう。という風に、更新をサボったらどうだろう? 増えるのは成功体験ではなく、脂肪である。
ダイエットのように自分の自分による自分のための変化、つまり自己変革の話なら、失敗してもさして問題はない。しかし他人が絡んでくると、話が面倒な方向に広がっていく。
「明日までに返すから、5万貸してくれ」Aくんが言った。
「絶対返せよ」そう言ってBくんは渋々貸してくれた。
翌日、BくんはAくんに電話をかけた。しかし聞こえるのは「お客様のおかけになった番号は……」というアナウンスメントのみであった。
かくして、積み上がった信用は、1日で崩れ落ちる。人間関係を繋ぐのは脆い絆でしかないからだ。
その脆い絆を繋ぎ止めるためには、信用に足る人物だ、ということを、日々、証明し続けなければいけない。しかし証明し続けたところで、その「成功体験」は砂上の楼閣。そう、何かに似ている。「期待値」である。
期待値がある台を追う、と決めたら、期待値のみを根拠にしなければいけない。それ以外の部分、「出ていたから」だとか、「打ちたいから」だとか、自己中心的な希望的観測を行動の根拠にしてはいけない。それは根拠の捏造だ。たとえそれで勝ったとしても、その金額はのちに自分の首を絞める凶器にしかならない。
期待値同様、成功体験を積み上げることは、容易なことではない。ほとんどの場合、どこかで失敗してしまう。己のミスで、己のタイミングの悪さで、または不運の魔の手によって。けれど、失敗してもまだ遅くない。失敗したと気付いた時点ですぐさまそれを認める。いくら砂上の楼閣といっても、構造物は歪んだ土台の上ではうまく建たないのだ。間違ったら、間違いを是正する。そしてまた、平らな地平の上に成功体験を積み重ねていく。たぶんそれしかない。どんな場所を目指すのであれ、それ以外に道はない。
他人を裏切れば、他人は無言で去っていく。しかし自分は去りようがない。極論、他人なんてどうだっていい。あんまり自分を失望させたくない。どの時間軸の自分であっても。ロクでもない人生だけど、そう思う。