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直感が当たる理由。

それは、優れた機能を持つ脳(すべての脳は優れた機能を持っている)が過去のデータベースから検索し、良い/悪いを予測したものだからだ。

嫌な直観と、良い直観、どちらが当たるかといって、的中率が高いのは、嫌な直観でありましょう。これも単純な理由で、我々の人生は、嫌な出来事に遭遇する確率の方が高いからだ。

世界は、我々を含む「変数」であって、一瞬、一瞬ごとにそのカタチを変えている。とかなんとか言っているこの瞬間にも変わり続けている。そんな摩訶不思議なものを、完全にシミュレートすることは不可能で、それでも脳は予測したいのである。それも完璧に。この時点ですでに矛盾、脳にとって嫌な出来事であるのだが、解決不可能な問題を解決するのはもちろん不可能なので、完璧に予測することはできないかもしれない。しかし、予測できることもあるかもしれない、くらいに開き直る。何なら、当たる当たらない関係なく、事実を捻じ曲げてしまう人がいるくらい、脳の予測欲は強い。

ついつい嫌な予感が発動してしまう理由の一つに、嫌な予感が外れたときのペナルティがないということもあるかもしれない。外れたところで実害が存在しない。ポジティブなことを考えていて、ポジティブなことが起きないというのは、個人の精神にとって実害そのもので、ネガを願って、ネガが起きなくても痛くも痒くもない。ネガティブというのはそれだけ自分勝手である証拠なのかもしれません。

誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない。それは自殺者の自尊心や或は彼自身に対する心理的興味の不足によるものであらう。

と始まる芥川龍之介の「或旧友へ送る手記」は、自身の自殺観を率直な言葉で語っているが、この手記の中で、かの有名な「何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」という文言が出てくるわけだが、人間はどうも、環境の変化に弱いらしい。

芥川が亡くなったのは昭和2年で、第一次世界大戦、関東大震災を経て、駆け足で過ぎ去った大正、自らが生まれた明治、遠ざかり続ける江戸という時代の波を考えると、今、現在、令和2年という時代における嫌な予感a.k.a.ぼんやりとした不安というものが見えてくる気がする。

肉体には、恒常性というものがあり、それは外界の変化に対して、体内をできるだけ同じ状態でキープしようとする機能であり、だからダイナミックに気候が変化する季節の変わり目は、体調を崩すことが多いわけで、脳が過去のデータベースから未来を予測する(したがる)機関だとして、ファクターが増えれば増えるだけ、計算、予測がしんどくなる。それは時代の変わり目に精神の不調を訴える人間が増える現象と呼応する。

新型コロナウイルスというものは、その一つのファクターに過ぎない。しかしその一つのファクターは、人類のほとんどが予測できなかった事態だった。人類の誰も(部分的には予測できても完璧には)予測できなかったものを、ぼくが予測できるわけがないのだから、本来、落ち込むことなんて何もないのだ。人間、死ぬときは死ぬし、生きたくて生きられない人もいるんだから。

ってのはわかってるんだけどねえ。おそらく、脳の性能が良過ぎるんですね(ポジティブ脳)。

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