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欲しがりません勝つまでは? は? 古い習慣や道徳などクソだ。貞淑や家庭や安定のどこに価値があるというのか。ビッチは自然だ。ビッチは知性だ。ブンガクは常に既存の価値観に反発する。しんどさに耐える日本の兵隊がしんどさに耐えられないアメリカの兵隊に負けるのは当たり前なのだ。

「堕落論」坂口安吾

という本は、我々は墜ちるべきだ。いや堕ちねばならぬ。てな思想が、嗜好が、ヒップホップ的な喧嘩口調で語られるアナーキーな一冊であり、レペゼン新潟の坂口は、夏目漱石を(軽薄な知性の)イミテーションとけなしつつ、「坂口安吾などというのが、ほんとうはインチキそのもの」とうそぶく。おそらくは、ぼくも坂口の言う「インチキ」チームの一員なのだろうが、自分を自分でインチキと言うのと、他人にインチキと言われるのは話がまったく違う。自分はいいが、他人はあかん。これが「自我」の基本原則であり、彼我の違いである。というわけで、ぼくは他人のことは批判せず、ぜひとも自分を批判したい。

昨今の報道でひときわ目立つのは、「不倫」と「薬物」だろう。が、ぼくは、この類の報道を見ても、ほとんど感想が出てこない。しかし普通に考えて、報道が過熱するには何らかの需要があるはずで、だからこのようなニュースにニーズを感じない感覚は、ぼくが普通じゃない証左なのだろう。ぼくの考えには、ぼくなりの論理があるとは思うのだが、不倫問題に言及しようとする人には、強い倫理がある。論理と倫理。字は似ているが、倫という字には仲間という意味があり、仲間の輪を乱すのは極悪人で、悪い人間には何を言ってもいい。このような倫理が、理解はできても腑に落ちないのは、ぼくがダメ人間だからだろう。結婚は、二人の間で交わした契約であって、担保として二人以上の証人が必要であって、二人の契約に、証人以外の他者が口をはさむというのはどうなんだろうか、と考えてしまうのは、「仲間」のことを真摯に考えられない人格の破綻、反社会性の現れだろう。できればぼくも、仲間の「輪」に入って、仲間内のルールを破った人間を処罰する責務をまっとうしたい。だけど、ぼくはいい加減な人間で、はたしていい加減な人間が他人を裁いてもいいものか。

ぼくは、自分にやらかし属性があるからか、他人のやらかし事件を見て、怒りがわくということがほぼない。見知らぬ人が酒を飲もうがやめようがどうでもいいし、歴史上、ほとんどの時代で正規メンバー扱いされなかった芸能民に品行方正さを求める意味もわからない。これもぼくが薄情な人間ということなのだろう。

生れて、すみません。昭和の小説家には、人前で喋るときにヒロポン(覚せい剤)を打つパフォーマンスをする人がいたり、死ぬ死ぬ詐欺を働く人がいたり、実際に服毒自殺、入水自殺、割腹自殺を遂げる人がいたり、昔はよかったなんて話をするつもりはないし、過去を美化するのは最低の行為とも思うが、そもそも「コンテンツ」を作ろうとする人間はイカレているという認識があり、だからこそ被害者ではなく、加害者意識に敏感であるべきと思うのだが、ああ、ぼくは自分の異常性を正当化しようとしているんだろうか。何という悪人だろうか。

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