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京都、いいですよねえ。何でこんなにいいのだろうか。そういえばスロ小説以外で文章にしてないな。この機会に試みたい、We Love京都。

ぼくの知る限り、多くの日本人は、神様を信じないことを信ずる無信教人間のように思える。というよりも、神様よりも空気を重んじる、空気至上主義者というべきか。なぜって、葬式は仏教式、結婚式はキリスト教式、一寸の虫にも五分の魂、正月は神社へ、周りに合わせて右へ倣え。ご多分にもれず、ぼくもその一人である。

空気は目に見えない。京都に何があるかといえば、寺社であり、寺社とは、目に見えないものを祈るためのプレイスである。

人間の中にあるとされていて、しかし目に見えないものといえば、気。ほんわりしたもの、はんなりしたもの、ほっこりしたものから尖ったものまで、「気持ち」は多種多様に変化するが、いつだって人が本気になるのは、食事であり、恋路であり、死出の旅路についてであり、その最高峰が宗教心であることは、信じるも信じないもない、文化人類学を持ち出すまでもない事実だろう。

京都は、この国の歴史上、最も長い間首都だった土地であり、ということは、この国の人々の気持ちが多く集まっている土地であり、気持ちが集まるというのは、それだけ表現(表現は、気持ちが表に現れたもの)された回数が多いということであり、それをオカルトめかして「パワー」とか言うからあかんのであって、力は、数学的、統計的に計量可能な概念であるべきで、かてて加えて、今、クフ王のピラミッドを作れと言われても作れないように、京都を作れと言われても、本気❌時間=唯一無二というような経年変化をまとっているために、再現ができない。

何だか御託を並べてしまったが、要するに、そこにあるもの、一つびとつのクオリティがスゲーのである。そんなもんおまえに言われんでも日本人やったら誰でも知ってるわ、とお思いの方も多々おられると思うが、他ならぬぼく自身が、十代の頃はあまり京都に興味を持てなかった。その愚を詫びたいのです。

若さとはとかく恐ろしいものだが、京都なんて暑いだけじゃん、みたいなことを言っていたのが十代の愚生だった。ただただ地形をディスリスペクトするという謎のマウント行為だったが、今になって思うのは、古都京都は日本の縮図であり、それこそ、京都みたいな場所、京都を模したプチ京都は日本中にあるわけで、総本山だから何なん? という気持ちがあったのだと思う。何なんどころの騒ぎではない。総本山だから、本気の含有度が段違いなのである。本当にすいませんでした。見識の浅さ、甘さ、深くお詫び申し上げます。

二十代の頃までは、後悔や、罪悪感は、人生において全く必要のない感情だと思っていたが、三十代、四十代と過ごすうちに、後悔や罪悪感ほど大切な感情はないという風に考えが変わった。後悔や罪悪感は、常に個人的な人格と紐付いている。後悔や罪悪感は、他人の中からは出ようがない。それらを排除しようとしたところで、自分から逃れられるというものではない。

ぼくという人間の中にある阿呆さ、浅さ、極端な甘さは、これから先もぼくの人生を苦しめ続けるはずであり、それこそが、ぼくという人間の真にオリジナルなところであり、逆に、いい感じのもの、美味しいだとか、麗しいだとか、渋い、カッコいい、痺れる、みたいな要素は、自分の中からは決して出てこないわけで、自分の中にないのだから、自分から向かうしかない。

旅行は、自分の中に存在しない感じのいいものを、見聞し、体感し、消化しようとすることによって、自己の欠点を補った気になる、という効果がある。

後悔や罪悪感まみれの自分から離れ、人の本気が具現化した建造物であり、人の祈りの結晶としての仏像であり、人の遊びの真髄としての庭園に身を委ねる。

自分探しの旅みたいなワードがバズった時代があったが、旅行はむしろ、自分消し、自分無視、忘我の体験なのだ。心配しなくても、自我は消えてなくならない。気が緩んだ途端に、「よ!」と近寄ってくるのが自我さんなのだから。

帰りの新幹線でビールを飲みながら、そんなポン引き然としたやつと対面し、ぎょっとする。いやはや、恥の多い人生を送っております。

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