KIMG4425

科学を扱った本を読んでいると、つくづく思うのが、神の不在/実在である。神というのが、何らかの意志を持ち、人々や事象の運命を司る主だとしたら、この世界に神はいない。しかし、神というのが、意志もなく、言葉も持たない確率の親玉だとしたら、この世界に神はたくさんいる。

そんな神の眷属、いや最高神として、エントロピーがある。

 過去の痕跡があるのに未来の痕跡が存在しないのは、ひとえに過去のエントロピーが低かったからだ。ほかに理由はない。なぜなら過去と未来の差を生み出すものは、かつてエントロピーが低かったという事実以外にないからだ。
 痕跡を残すには、何かが止まる、つまり動くのをやめる必要がある。ところがこれは非可逆な過程で、エネルギーが熱へと劣化するときに限って起きる。


「時間は存在しない」カルロ・ロヴェッリ 冨永星訳より

エントロピーは一方的に増大していく。そんなエントロピーに反抗して、人間の細胞は、あえて壊すという戦略を取っている。自ら死を選ぶ細胞すらもある。壊し、壊し、常に作り換える。そうしないと、エントロピーは、すぐに死に至る呪いを送りつけてくる。死をデリバリーしようとするエントロピー、それを防ごうとする細胞連合による千日戦争。いつかは死にまみれてしまうとしても、その戦いは、長く長く続いていく。ぼくたちの意思をよそに。

そんな我々の脳には、おおよそ1000億の神経細胞があるらしく、最近の脳の研究では、次のようなことが理解されたという。

 おおまかにいうと、脳は過去の記憶を集め、それを使って絶えず未来を予測しようとする仕組みである

人間がギャンブルにハマるのは、そのような脳の仕組みであり、好むと好まざるとに関わらず、脳が活動している間は、ギャンブルをせずにはいられない。もうしょうがないんですね。こればかりは。

ずいぶん前の話だが、競馬の夢を見て、そのレースでは2−5が来たのであった。起きて思う。マジ? と。これ正夢じゃね? と。その日は菊花賞があり、今から競馬場に向かえば、馬券を買える。ウインズでもいい。友人に頼んでもいい。しかし、本当に2−5が来るのか? 来るとしたら、その根拠は?

もし、ぼくが神に選ばれし人間であれば、ここで2−5が来るだろう。しかしぼくが神に選ばれていないのであれば、2−5が来ることはないだろう。ここでぼくが考えたのは、ぼくと神との関係である。

ぼくは、神に選ばれし人間なのか。

未来人であるぼくが言うのもなんだが、正気の沙汰ではない。若干、寝ぼけているのもあるんだろうが、かなり真面目にこんなことを考えているのだ。俺か、俺以外か。

陰謀論と同じ種類の馬鹿さであり、身勝手さである。そもそも18頭立てで行われるレースの1位と2位を当てる【馬連】の確率は、18✖️17=306、1位でも2位でもいいということで二等分して、1/153という確率である。スロットで言えば、1ゲームでレア小役を引き当てるようなものであり、俺か俺以外の二択なんてとんでもない話である。

複雑な事象を単純化するのは、一見、効率的に見えるが、ほとんどの場合、非効率になってしまう。競馬の結果を決定するのが、俺か俺以外である以上、原因も、俺か俺以外になってしまう。と、すれば、競馬を運営しているのも、俺か俺以外ということになる。そんな馬鹿な話はない。

しかも。その日は菊花賞以外にも、京都競馬場以外でもレースは行われる。18頭も出ないレースも多いわけで、そのどこかで2−5が来る確率は、ぐっと跳ね上がる。そんなインチキな予知夢もない。

ただ。もし、仮に、菊花賞で2−5が来た場合、ぼくの精神は、どういう感じになるのだろうか?

ばばばアバババババババババばばばとなるのは、目に見えている。だって、夢の中ではあるが、この目で、2−5という結果を見たのだ。この目で見た光景を信じず、従わず、しかも現実のレースで2−5が来たら、と思うと吐き気がする。

ああ、神様、どうすればいいんですか?

この日のぼくが幸運だったのは、この吐き気が、未来に対する不安感だけではなく、前日に酒を飲み過ぎたということに尽きるだろう。単純に気持ち悪かったのだ。気持ち悪いし、何かもうどうでもいいや、と。で、寝たり、起きて水を飲んだり、また寝たりしているうちに、菊花賞は始まり、そして終わっていた。結果は全く、かすりもせず。

その日以来、ぼくは一度も馬券を買っていない。

脳は、俺か俺以外の材料を貪欲に集めようとする。時間が存在しないと言われて、何だかやりきれない気分になるのは、ぼくが生きているこの時間が、ないがしろにされている感じがするからだろう。

しかしぼくの脳は、2−5が来る夢を見て、レースに参加するか参加しないかに葛藤し、結果的に参加せず、2−5が来なかったことを喜ぶくらいの自分勝手さがある。もし仮に、ぼくが2−5を賭けていたら、どのような結果になっていたのだろうか? あるいは、この菊花賞の結果を知った状態で、賭けていたとしたら?

残念ながら、過去に戻ることはできない。

おばあちゃんと最後にハグを交わしたのは、4年前のことだった。しかし、おばあちゃんは今、この世界に存在しない。

時間が存在しないと言われて、何だかやりきれないのは、おばあちゃんが生きていた4年前と、おばあちゃんが生きていない今の間に、何もないと言われているような気持ちになるということもある。

おそらく、ぼくにとって大切なのは、自分であり、自分の記憶なのだ。時間そのものというよりも。

4日目。

「時間は存在しない」(カルロ・ロヴェッリ 冨永星訳)という本には、こういうことが書いてある。

 時間は、場所が違えば異なるリズムを刻み、異なる進み方をする。

 この世界について考える際の最良の語法は、不変性を表す語法ではなく変化を表す語法、「〜である」ではなく「〜になる」という語法なのだ。

 この世界は物ではなく、出来事の集まりなのである。

 物と出来事の違い、それは前者が時間をどこまでも貫くのに対して、後者は継続時間に限りがあるという点にある。物の典型が石だとすると、「明日、あの石はどこにあるんだろう」と考えることができる。いっぽうキスは出来事で、「明日、あのキスはどこにあるんだろう」という問いは無意味である。この世界は石ではなく、キスのネットワークでできている。

 実際さらに細かく見ていくと、いかにも「物」らしい対象でも、長く続く「出来事」でしかない。

一見、「物」に見える石も、「出来事」であるということなのだろう。石。それは、惑星と惑星がぶつかった結果であり、新石器時代の人類の痕跡であり、再び砂に戻るまでの過程でもある。というような。

マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」に、こんな箇所がある。

 現実は、記憶のみによって形成される。


記憶について、カズオイシグロが、福岡伸一に語ったのは、「記憶は、死に対する部分的な勝利である」ということだった。

「時間は存在しない」の著者は、記憶について、こんなことを書いている。

 記憶と呼ばれるこの広がりと私たちの連続的な予測の過程が組み合わさった時、わたしたちは時間を時間と感じ、自分を自分と感じる。

 時間はわたしたちに、この世界への限定的なアクセスを開いてくれる。つまり時間は、本質的に記憶と予測でできた脳の持ち主であるわたしたちヒトの、この世界との相互作用の形であり、わたしたちのアイデンティティーの源なのだ。
 そして、苦しみの源でもある、と。


そういえば、三島由紀夫が人生の最後に書いた小説は、こんな言葉で締められていた。

 この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまつたと本多は思つた。
 庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる。……



……ああ。気づけば、夏が終わり、秋になってしまった。ページを1ページ1ページ繰っていくうちに3泊4日の読書旅行も終わってしまう。しかし、これらもすべて、時間がもたらしてくれた体験ではないだろうか。そう。

 時間は、この世界の出来事のなかの短命な揺らぎでしかないからこそ、わたしたちをわたしたちとして生み出し得る。わたしたちは時でできている。時はわたしたちを存在させ、わたしたちに存在という貴い贈り物を与え、永遠という儚い幻想を作ることを許す。だからこそ、わたしたちのすべての苦悩が生まれる。

 記憶。そして郷愁。わたしたちは、来ないかもしれない未来を切望する。このようにして開かれた空き地ーー記憶と期待とによって開かれた空き地ーーが時間なのだ。それは時には苦悩の元になるが、結局は途方もない贈り物なのである。


うおー、贈り物ー。ありがとー。めっちゃ面白かった。

本を読んだ後の、このいい気分はどれくらい続くんだろう? 一時間? 一日? 一週間? どれだけ長持ちしても、この気持ちは、少しずつ失われていく。これもおそらく、ぼくたちが知覚できる時間というものなのだろう。

しかし記憶が風化してしまっても、また別の本で、このような気持ちを得ることはできる。ぼくたちが旅行をするのは、あるいは本を読むのは、そのためだろう。肉体の春は二度と戻ってこないが、精神の春は幾らでもめぐる。これもまた、時間のなせる御業だろう。

それにしても、いい気分だ。旅行の最終日の朝に、素晴らしい朝食を食べたような。珍しく二日酔いもない。肩腰膝も痛くない。美味しいご飯だった。素晴らしい体験だった。さあ、帰ろう。

どこに? 自分の時間の中に。

にほんブログ村 スロットブログへ