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ぼくの頭はぼんやりしている。

これ、病気なのか、それとも、加齢による老化なのか、同年代の人がいたら聞いてみたいのだけど、寝起きの瞬間から、大瓶の瓶ビールを一気し終えたくらいな感覚なのだ。学生時分とはぜんぜん違う。物事を集中して考えようとしても、考える「材料」と「材料」をくっつけることが難しい。何とか頭の中に手を伸ばして、つかまえて、つかまえて、くっつけようとするのだが、するりと滑り、逃げてしまう。困ったものだ。

ええと、ぼくは昨日から何かを始めたような気がする。そう。本を読んでいたのだった。

「時間は存在しない」カルロ・ロヴェッリ 冨永星訳

2日目。

しおりのはさまっている56ページから、読んでいく。66ページ。著者はアリストテレスとニュートンの対比を試み始めた。

しょうがない。ぼくは、エヴァAT777とバジリスク絆を対比しようか。何のために? わからん。比べる意味はあるのか? ない、たぶんない、いや絶対にない。じゃあ、何で対比する? 何となく? 真似というか。自分、阿呆ちゃう?

というように、思考はバラバラにほどけ、なかなか固まってくれない。集中力が持続しない。それでも本を読み進めていく。

アリストテレスとニュートンの違いは一目瞭然。と著者は言うのだが、何が一目瞭然なのか、ぼくにはよくわからない。たぶん、ぼくの目がぼんやりしているせいだろう。

いや、ぼくの目だけでなく、人間の目が、ぼんやりしているのかもしれない。たとえば、次の二つの文章は同じものについての記述である。

「このコップは空っぽだ」

「このコップは空気でいっぱいだ」

前者はガス欠、後者は満タン。くらいに印象が違うが、ぼくたちの目に、空気は見えないのだから、ぼくたちの実感としては、そこには何もない、空っぽとしか言えない。しかし実際には、空気で満ちている。空気で満ちていなかったとしたら、我々は生きていけない。困った困った。と言って困っていないのは、空気があるからだ。ありがとう空気。

空気に感謝をささげているうちに、少し眠ってしまっていたらしい。あかんね。本を読まなくては。それにしても、昼寝は気持ちいいですね。ディラックの海でたゆたっているような。ぷかぷか。一日のうちで、一番天国に近い時間というか。ええと、何だっけ。

アリストテレスとニュートンの対比だった。そこにもう一人、アインシュタインがやってきて、3人は踊り出す。

そう、一見、反対のことを言っているような、アリストテレスさんと、ニュートンさんは、ともに正しいことを言っていた、ということが、アインシュタインさんによって理解されたらしいのである。3人の天才のダンスが、人類をはるかな高みまで持ち上げた。らしい。

しかし、人類の一員であるはずのぼくは、いまいちその本質がよくわからない。

当たり前の話だが、理論には、わかるものと、わからないものがあって、ここにぼくの限界がある。期待値の理論は、算数をベースにした理論であり、これは、小学校を卒業しているぼくにかかれば、わけなく理解できるのであるが、相対論的物理学になると、ちんぷんかんぷんである。ドンッ。ここにさらに、量子論が加わる。

よし。無理だ。とはいえ、物理的に存在する「本」のいいところは、読めば進んでいくということ。そして、読書において進むということは、終わりに近づくということである。

量子力学が発見したのは、時間が連続的ではなく、粒状である、ということらしい。粒状。「量子」とは基本的な粒のことで、あらゆる現象に「最小の規模」が存在する。

ぼくたちは歴史を、一筆書きで書かれたような、連続するひとかたまりかのように理解している。
「鳴かぬほととぎすを殺す信長、鳴かせてみせる秀吉、鳴くまで待つ家康」

というように、信長が土を開墾し、秀吉が種をまいて、家康が収穫したみたいな一連の流れとして、歴史をとらえているが、実際には、それぞれが独立して存在しているわけで、さらにたくさんの武将が様々な思わくで、様々なことをしていたが、たまたま実績を残した三名がピックアップされ、それを後年の人がひとまとめしただけなのだ。

この世界は、絵筆で描かれた絵画ではなく、ドットの集合体であるところの点描画ということなのだろう。粒状性は自然界の至るところで見られる、と著者は言う。たとえば光は光の粒、つまり光子でできている。純粋な空気も粒状で、分子で構成されている、と。

さて、量子力学の二つ目の発見は、不確かさ、らしい。たとえば、ある電子が明日どこに現れるかを正確に予測することはできない。確率の雲のなかに散っているようなもので、物理学者の業界用語では、これを位置の「重ね合わせ」状態にあるという。

ランダムに設定を入れる店で、前もって台の設定を予想することはできないみたいなことか。ランダムである以上、店長すら、設定がどこに入るのかわからないのだから。

時空も、電子のような物理的対象である。そしてやはり揺らぐ。さらに、異なる配置が「重ね合わさった」状態にもなり得る。

犬ドリルという言葉があるが、犬が高速でブルブルするとき、写真では犬の顔がドリルに見える。しかし犬はもちろんドリルではない。

葛城ミサトさんの言葉でいえば、「つまり、ワケわかんないってこと?」である。あるいは、「神のみぞ知る。といったところかしら」である。

物事をはっきりさせるために生まれた数学、を突き詰めたところの物理学、から飛翔しようとした量子力学に到って、物事はどこまで迫っても、不確実性が存在しているということが発見された。

一つの粒子が、確率的に空間に散って不確かになるのだから、過去と未来の違いも揺れ動く。したがって、ある出来事がほかの出来事の前でありながら、後でもあり得る。

やれやれ。

ぼくの頭がぼんやりしているのではなくて、この世界がぼんやりしているんじゃないか。しかし紛れもなく、ぼくたちはこの世界を生きているのだ。

というところで、110ページに到達してしまった。最後まで一気に読んでしまいたいところだけど、ここは一息ついて、明日の自分にバトンタッチします。頼んだぜ。

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