恋愛とギャンブルの焦点
たぶん何歳になっても、抑えきれない衝動がある。
破壊衝動、性欲、食欲、睡眠欲、消費欲、脳内麻薬の分泌への衝動。
これらに簡単な公式 を与えることは可能だと思う。
行動×欲望=結果
ポイントは、個人の欲望はだいたいにおいて「マイナス」であるということだ。
何でオレがホリキタマキと付き合えないのだろう? という衝動から生まれる疑問には、一ミリの正当性もない。
他人がそんなことを言っているのを耳にすると、ほとんどの人間はこう言う。
「バカじゃねえ?」と。あるいは「アホちゃう?」と。
だから、そんな欲望に行動を乗じてしまうと、えらい結果が待っている。Go to Jailである。だからこの場合の模範解答は、行動を「0」にすること、つまり、何もしないということにある。
信仰は自由だ。が、行動には制限がある。それが人間の社会なのである。
残念なことに、恋愛もこれに近いところがある。
あいつ可愛いよな、と思うのは、個人の自由。しかし、あいつオレのことを好きになんねえかな、となると、話は別だ。
恋愛は双方向なのだ。
そんな恋愛の、素晴らしい奇跡を公式にすることも可能だと思う。
(行動×欲望)×(行動×欲望)=愛
そう、マイナスとマイナスが掛け合わさるとプラスに転ずる。
しかし欲望が愛に転じるのは稀有な例であり、たいていは欲望のせいで、自滅するのがオチ。
それがふたりならなおさらである。どちらかの人間の欲望が変質してしまうと、たちまちこうなってしまう。
(行動×欲望)×(行動×欲望)=憎
ほとんどソウルジェムと同じシステムである。
が、今のぼくは奇跡や魔法について語る口は持たない。
あくまで現実を見つめなければいけない。
それがパチ屋という空間で生きる人間の常識である。
欲望のままに行動するということは、ホールに入って目に付いた台に座って打ちはじめるということ。
負けるに決まっている。
スロッターはどうするか。当然、戦略を立てる。
ということで、戦略的観点から、ものごとをとらえてみよう。
戦略の前提は計算である。
しかし計算できないことはいくらだってある。
できないことはあきらめるしかない。どうやってあきらめるか。
ここでできるとすれば、逆転の発想、あきらめるための戦略だろう。
ハイゼンベルクが見出した「不確定性原理」という量子力学の原理がある。
ぼくは不等式に関する知識をさっぱり持ち合わせていないため、これを数学的観点、あるいは量子力学的観点から説明することは叶わない。
しかし、これを言語に落とし込んでみると、あちらを立てればこちらが立たず、ということである(と思う)。
より現代的な言葉で言えば無理ゲーである。
人間は一個の生命体であるから、ふたつの場所で同時に自分を展開させることはできない。無理なものは無理なのだ。
無知の知でもある。
そういうときどうするか。科学者でも数学者でもないぼくは、言語にして浄化するしかないように思う。
自分の衝動の中で、言語化できるものと、言語化できないものに分ける。言語化できるものは、言語によって鎮める。言語化できないものは、あきらめるクセをつける。
恥ずかしながら、いまだハーデスでGODを引けていない。でも、そのことを嘆いてもどうしようもないじゃないか。
言語とは、言うまでもなく、人類が作り出したファンタジーである。動物に言語はない。だから言語的な生活を送ることができない。
ぼくは動物である。けれど人間である。人間は自らの野性を理性で乗り越える生き物なのである。
さらば、ホリキタマキ。
人気ブログランキングへ
「雪松図屏風」円山応挙
人生で最大のギャンブルは恋愛である、とぼくは書いた。喜色満面の笑みで、どや、と。
なぜ、ギャンブルに負けるとつらいのか。
なぜ、恋愛でうまくいかないとつらいのか。
それは、ひとつの死だからである。レスポンスの返って来ないもの、それらはすべて死と同義である。キーボードをタンと叩く。「キーボードをタンと叩く」。よかった。まだ、生きている、とは思わない。極めて普通の現象だとぼくは思う。しかし、これがキーボードをタンと叩き、
無反応だったら、動揺する。
無視されるのがつらいのも、同じ理由である。
それを他人にする。それは肉体こそ伴わないが、殺傷行為である。そう思う。
今日はぼくなりに、死を定義したいと思う。死。それは打っても響かないこと、つまり、「レスポンスの不在」である、と。
ぼくたちは(少なくとも自分のことを人間と定義しているなら誰だって)、不在に耐えられない存在として、存在している。
そんなぼくらには、これから、恐ろしい未来が(ほぼ確実に)待ち受けている。
愛するものの死、友の死、大恋愛の末の破局、事業の失敗、体力の低下、まずいラーメン屋に入ってしまう、バジ絆フリーズで300枚しか出ない、設定六で憤死、エトセトラ……, etc.
何にせよ、それらは自分の死、もしくは死に限りなく近いできごとである。
本当の自分の死については、思い煩う必要はないと思う。おそらく自分の死を自分で受け止めることはできないだろうから。
オラは永遠に生きる、という幼児的な魂が少しばかり残っているけれど、それでも自分の死は無と同義である、という感覚のほうが強い。
とすれば、死というものは、「レスポンスの不在」という形でしか、体験できないのである。
死に慣れることなんてできはしない。それでも、そのことを「ある」こととして受け止めることはできる。いや、できる、はずである。
だってぼくらは知っている。ギャンブルに手を出せば、ほとんど負けるということを。
そして自分の欲しいもの、手に入れたいものというのは、確率が低いということを。
ギャンブルの定義は色々あると思うが、ぼくは森巣博の言った「合意の略奪闘争」という言葉に合意したい。
ポイントは「合意」である。
もちろん恋愛も、第一に相手との「合意」が必要だろう。一方的な恋愛は空想的であり、場合によってはハラスメント的なものである。恋愛はひとりではできないのだから。
すべての依存症、わけてもギャンブル依存の問題は、この「合意」の部分が、麻薬的あるいは催眠的、つまり半強制的なところにあるのでは、と思う。自分のお金を自分の意志でかけて、戻ってこなかったら許せない、というのは、その「合意」に合意できていない証拠であると思う。
ぼくにとって敗北の味はいまだ苦く、苦しく、合意、そして納得の境地に至らないのが実情であり、精進しなければ、と決意を新たにする所存であるが、その合意の部分を、全員が納得でき、かつ、その場に臨むとしたら、どのような種類のギャンブルであれ、精神と肉体の極限の戦い、つまり、アスリートの棲むような修羅の世界と化すだろう。
おそらくギャンブルはそこまでの修羅場ではない。合意できていない人から、合意できている人がかっぱいでいくからである。
合意の前提には、ルールがある。そして同じルールで争った場合、ルールを熟知している人とルールを把握すらしていない人では、まず前者が勝つと相場が決まっている。
後者はルールに縛られるが、前者はルールに合わせて自分を調整できるのである。
箱に入れられた二匹の虫を想像してみると、わかりやすいかと思う。片方は箱の大きさを熟知しているが、片方は知らない。当然、後者の虫は、生存の欲求そのままに、飛んだり跳ねたりしようとする。しかし、箱の形に邪魔されるのである。前者の虫は、自滅を待つだけでよい。
勝ち方などというものはない。
負け方を熟知しているかどうか。
……いや、そんなことすらどうでもいいのかもしれない。
ぼくの定義した死というのは、まったく一般的な死ではない。スロットに負けたくらいで死というのなら、パチンコ屋は巨大なトラップであり、台はキリングマシーンであり、メーカーは死の商人になってしまう。
死=「レスポンスの不在」。それはほとんどぼくの造語、つまりファンタジーである。だからテクニカルな話はやめよう。
大切なことは、ぼくが本当に大切だと思うことは、何が起きても人生は続く、ということだ。
何が起きても人生は続く。
どうして? という疑問に意味はない。
それはただ、そういうことなのだ。
ふざけんな、と言っても何の効果もない。
天に唾をはいても、顔にかかるだけで、人生は続く。
他人を傷つけても人生は続く。
自傷しても、もちろん人生は続く。
死、すなわち、レスポンスの返ってこない行為を何度重ねても、人生は続く。
フラれても、スロットに負けても、友がこの世からいなくなっても、明日になればまた日は昇る。曇っていても、台風の日でも。
ゲーテは言った。
「コントロールの効かない行為は、
どんな種類のものであれ、
その行き着く先は、破滅だ」 と。
この言葉はとても大切なことを言っていると思うので、何度でも使いたい。
この地では、古くからパワーはコントロールできないもの、と定めていた。相手は八百万の自然だった。地震、雷、火事、オヤジ、台風、旱魃、疫病、云々。だから、あえて壊れやすいものを壊れやすいようにつくり、それを修繕し、あるいはつくりなおし、それで脈々と保ってきた。
何を。
たぶん、空気感のようなものを。
今からおよそ800年の昔、鴨長明はこう言った。
「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と。
その頃あった川で、まだ現存している川はいくらでもある。しかし、その内容はさっぱり違う。それを見つめる人間の目も、その川の中に住む生物も。
場所は変わり、今からおよそ1330年の昔、唐代の詩人はこう言った。
「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」と。
(ねんねんさいさいはなあいにたり、さいさいねんねんひとおなじからず)
年がたっても花は似た形をしているが、それを見る人間の顔ぶれは全然違う。
逆もまた、真である(と思う)。
パチンコ屋に居る人は、どこの地域でもわりと似たような人が多い。たぶん、どこかのパチンコ屋から、違うパチンコ屋にテレポートしたとしても、違和感がないのでは、と思うくらいに似た雰囲気がある。
海外に出る。CASINOに入る。そこでも似たような人が、似たようなことを、している。
いつも居る人、同じ人、似たような機種を、似たような顔で打っている。いつも、いつまでも。
どんなことが起きても、人生は続く。
人気ブログランキングへ
以前は大人数で行動することもあった。
飲み会だとか、花見だとか、忘年会だとか、新年会だとか、そんな類のイベントは、むしろ好きなほうだった、と思う。
今は誰かと会うといっても、ほとんどはサシ。大人数で飲むことなど皆無。別にそれを嘆いているわけではなく、集団に属さない限り、集団には入りづらいというただの事実を書いている(負け惜しみみたいなものですな)。
これは、十数年前に都内某桜の名所で起きた、実際のできごとである。
作者 寿
ブログポリシー「my rights sometimes samurai!」
当ブログは、寿という人でなしが小説を書くなかで、
また、スロットを打つなかで、トレードをするなかで、
はみ出たものを一所懸命につづったものです。
基本的に毎日更新してはいますが、
毎朝グビグビ飲めるというほどあっさりした、
また、健康的な文章ではありません。
油ギトギトのラーメンというほどではないと思いますが、
胸焼け、食あたりを起こす可能性がある由、ご留意くださいますよう。
また、コメントは大歓迎です。
引用ももちろん大歓迎ですが、引用元の記事を明記していただけると幸いです。
それでは今日もはりきってまいりましょう! どこへ? チャートの世界へ。
また、スロットを打つなかで、トレードをするなかで、
はみ出たものを一所懸命につづったものです。
基本的に毎日更新してはいますが、
毎朝グビグビ飲めるというほどあっさりした、
また、健康的な文章ではありません。
油ギトギトのラーメンというほどではないと思いますが、
胸焼け、食あたりを起こす可能性がある由、ご留意くださいますよう。
また、コメントは大歓迎です。
引用ももちろん大歓迎ですが、引用元の記事を明記していただけると幸いです。
それでは今日もはりきってまいりましょう! どこへ? チャートの世界へ。
最新記事
カテゴリー
アーカイブ
人気記事
連絡先 kakukotokakerukoto@@yahoo.co.jp
@をひとつ消してくださいませ。
参考ブログor相互リンク先更新状況
相互リンクについて
相互リンク
最新コメント
アクセスカウンター
- 累計: