書くこと、賭けること

どうもはじめまして。スロ小説家のブログです。

すべての書かれたもののうちで私が愛するのは、自分の血で書かれたものだけだ。
血で書け。そうすればきみは、血が精神であることを経験するだろう。

フリードリヒ・ニーチェ 永井均訳
「ツァラトゥストラはこう語った」
読むことと書くこと、より

恋愛とギャンブルの焦点

第三百七十九話「小さな島の恋の歌」

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随分前のことだけど、ひょんなきっかけで仲良くなった沖縄の女の子がいた。続きを読む

第百四十四話「好きな人をあきらめる方法」

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たぶん何歳になっても、抑えきれない衝動がある。

破壊衝動、性欲、食欲、睡眠欲、消費欲、脳内麻薬の分泌への衝動。


これらに簡単な公式 を与えることは可能だと思う。

行動×欲望=結果

ポイントは、個人の欲望はだいたいにおいて「マイナス」であるということだ。

何でオレがホリキタマキと付き合えないのだろう? という衝動から生まれる疑問には、一ミリの正当性もない。

他人がそんなことを言っているのを耳にすると、ほとんどの人間はこう言う。
「バカじゃねえ?」と。あるいは「アホちゃう?」と。

だから、そんな欲望に行動を乗じてしまうと、えらい結果が待っている。Go to Jailである。だからこの場合の模範解答は、行動を「0」にすること、つまり、何もしないということにある。
信仰は自由だ。が、行動には制限がある。それが人間の社会なのである。

残念なことに、恋愛もこれに近いところがある。

あいつ可愛いよな、と思うのは、個人の自由。しかし、あいつオレのことを好きになんねえかな、となると、話は別だ。

恋愛は双方向なのだ。

そんな恋愛の、素晴らしい奇跡を公式にすることも可能だと思う。

(行動×欲望)×(行動×欲望)=愛

そう、マイナスとマイナスが掛け合わさるとプラスに転ずる。

しかし欲望が愛に転じるのは稀有な例であり、たいていは欲望のせいで、自滅するのがオチ。
それがふたりならなおさらである。どちらかの人間の欲望が変質してしまうと、たちまちこうなってしまう。

(行動×欲望)×(行動×欲望)=憎

ほとんどソウルジェムと同じシステムである。

が、今のぼくは奇跡や魔法について語る口は持たない。
あくまで現実を見つめなければいけない。
それがパチ屋という空間で生きる人間の常識である。

欲望のままに行動するということは、ホールに入って目に付いた台に座って打ちはじめるということ。
負けるに決まっている。

スロッターはどうするか。当然、戦略を立てる。

ということで、戦略的観点から、ものごとをとらえてみよう。

戦略の前提は計算である。

しかし計算できないことはいくらだってある。

できないことはあきらめるしかない。どうやってあきらめるか。

ここでできるとすれば、逆転の発想、あきらめるための戦略だろう。

ハイゼンベルクが見出した「不確定性原理」という量子力学の原理がある。
ぼくは不等式に関する知識をさっぱり持ち合わせていないため、これを数学的観点、あるいは量子力学的観点から説明することは叶わない。
しかし、これを言語に落とし込んでみると、あちらを立てればこちらが立たず、ということである(と思う)。

より現代的な言葉で言えば無理ゲーである。

人間は一個の生命体であるから、ふたつの場所で同時に自分を展開させることはできない。無理なものは無理なのだ。

無知の知でもある。

そういうときどうするか。科学者でも数学者でもないぼくは、言語にして浄化するしかないように思う。

自分の衝動の中で、言語化できるものと、言語化できないものに分ける。言語化できるものは、言語によって鎮める。言語化できないものは、あきらめるクセをつける。

恥ずかしながら、いまだハーデスでGODを引けていない。でも、そのことを嘆いてもどうしようもないじゃないか。

言語とは、言うまでもなく、人類が作り出したファンタジーである。動物に言語はない。だから言語的な生活を送ることができない。

ぼくは動物である。けれど人間である。人間は自らの野性を理性で乗り越える生き物なのである。

さらば、ホリキタマキ。

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第百二十八話「スロットで負けても、恋破れても、人生は続く」

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「雪松図屏風」円山応挙

人生で最大のギャンブルは恋愛である、とぼくは書いた。喜色満面の笑みで、どや、と。


なぜ、ギャンブルに負けるとつらいのか。

なぜ、恋愛でうまくいかないとつらいのか。

それは、ひとつの死だからである。レスポンスの返って来ないもの、それらはすべて死と同義である。キーボードをタンと叩く。「キーボードをタンと叩く」。よかった。まだ、生きている、とは思わない。極めて普通の現象だとぼくは思う。しかし、これがキーボードをタンと叩き、
























無反応だったら、動揺する。

無視されるのがつらいのも、同じ理由である。
それを他人にする。それは肉体こそ伴わないが、殺傷行為である。そう思う。

今日はぼくなりに、死を定義したいと思う。死。それは打っても響かないこと、つまり、「レスポンスの不在」である、と。

ぼくたちは(少なくとも自分のことを人間と定義しているなら誰だって)、不在に耐えられない存在として、存在している。

そんなぼくらには、これから、恐ろしい未来が(ほぼ確実に)待ち受けている。

愛するものの死、友の死、大恋愛の末の破局、事業の失敗、体力の低下、まずいラーメン屋に入ってしまう、バジ絆フリーズで300枚しか出ない、設定六で憤死、エトセトラ……, etc.

何にせよ、それらは自分の死、もしくは死に限りなく近いできごとである。

本当の自分の死については、思い煩う必要はないと思う。おそらく自分の死を自分で受け止めることはできないだろうから。
オラは永遠に生きる、という幼児的な魂が少しばかり残っているけれど、それでも自分の死は無と同義である、という感覚のほうが強い。

とすれば、死というものは、「レスポンスの不在」という形でしか、体験できないのである。
死に慣れることなんてできはしない。それでも、そのことを「ある」こととして受け止めることはできる。いや、できる、はずである。
だってぼくらは知っている。ギャンブルに手を出せば、ほとんど負けるということを。
そして自分の欲しいもの、手に入れたいものというのは、確率が低いということを。

ギャンブルの定義は色々あると思うが、ぼくは森巣博の言った「合意の略奪闘争」という言葉に合意したい。
ポイントは「合意」である。

もちろん恋愛も、第一に相手との「合意」が必要だろう。一方的な恋愛は空想的であり、場合によってはハラスメント的なものである。恋愛はひとりではできないのだから。

すべての依存症、わけてもギャンブル依存の問題は、この「合意」の部分が、麻薬的あるいは催眠的、つまり半強制的なところにあるのでは、と思う。自分のお金を自分の意志でかけて、戻ってこなかったら許せない、というのは、その「合意」に合意できていない証拠であると思う。
ぼくにとって敗北の味はいまだ苦く、苦しく、合意、そして納得の境地に至らないのが実情であり、精進しなければ、と決意を新たにする所存であるが、その合意の部分を、全員が納得でき、かつ、その場に臨むとしたら、どのような種類のギャンブルであれ、精神と肉体の極限の戦い、つまり、アスリートの棲むような修羅の世界と化すだろう。
おそらくギャンブルはそこまでの修羅場ではない。合意できていない人から、合意できている人がかっぱいでいくからである。

合意の前提には、ルールがある。そして同じルールで争った場合、ルールを熟知している人とルールを把握すらしていない人では、まず前者が勝つと相場が決まっている。
後者はルールに縛られるが、前者はルールに合わせて自分を調整できるのである。

箱に入れられた二匹の虫を想像してみると、わかりやすいかと思う。片方は箱の大きさを熟知しているが、片方は知らない。当然、後者の虫は、生存の欲求そのままに、飛んだり跳ねたりしようとする。しかし、箱の形に邪魔されるのである。前者の虫は、自滅を待つだけでよい。

勝ち方などというものはない。
負け方を熟知しているかどうか。

……いや、そんなことすらどうでもいいのかもしれない。

ぼくの定義した死というのは、まったく一般的な死ではない。スロットに負けたくらいで死というのなら、パチンコ屋は巨大なトラップであり、台はキリングマシーンであり、メーカーは死の商人になってしまう。
死=「レスポンスの不在」。それはほとんどぼくの造語、つまりファンタジーである。だからテクニカルな話はやめよう。

大切なことは、ぼくが本当に大切だと思うことは、何が起きても人生は続く、ということだ。
何が起きても人生は続く。
どうして? という疑問に意味はない。
それはただ、そういうことなのだ。
ふざけんな、と言っても何の効果もない。
天に唾をはいても、顔にかかるだけで、人生は続く。
他人を傷つけても人生は続く。
自傷しても、もちろん人生は続く。
死、すなわち、レスポンスの返ってこない行為を何度重ねても、人生は続く。
フラれても、スロットに負けても、友がこの世からいなくなっても、明日になればまた日は昇る。曇っていても、台風の日でも。

ゲーテは言った。

「コントロールの効かない行為は、
 どんな種類のものであれ、 
その行き着く先は、破滅だ」 と。

この言葉はとても大切なことを言っていると思うので、何度でも使いたい。

この地では、古くからパワーはコントロールできないもの、と定めていた。相手は八百万の自然だった。地震、雷、火事、オヤジ、台風、旱魃、疫病、云々。だから、あえて壊れやすいものを壊れやすいようにつくり、それを修繕し、あるいはつくりなおし、それで脈々と保ってきた。
何を。
たぶん、空気感のようなものを。

今からおよそ800年の昔、鴨長明はこう言った。
「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と。

その頃あった川で、まだ現存している川はいくらでもある。しかし、その内容はさっぱり違う。それを見つめる人間の目も、その川の中に住む生物も。

場所は変わり、今からおよそ1330年の昔、唐代の詩人はこう言った。
「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」と。
(ねんねんさいさいはなあいにたり、さいさいねんねんひとおなじからず)
年がたっても花は似た形をしているが、それを見る人間の顔ぶれは全然違う。

逆もまた、真である(と思う)。

パチンコ屋に居る人は、どこの地域でもわりと似たような人が多い。たぶん、どこかのパチンコ屋から、違うパチンコ屋にテレポートしたとしても、違和感がないのでは、と思うくらいに似た雰囲気がある。
海外に出る。CASINOに入る。そこでも似たような人が、似たようなことを、している。

いつも居る人、同じ人、似たような機種を、似たような顔で打っている。いつも、いつまでも。

どんなことが起きても、人生は続く。


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第百二十六話「桜の森の満開の下のネズミ」

以前は大人数で行動することもあった。

飲み会だとか、花見だとか、忘年会だとか、新年会だとか、そんな類のイベントは、むしろ好きなほうだった、と思う。
今は誰かと会うといっても、ほとんどはサシ。大人数で飲むことなど皆無。別にそれを嘆いているわけではなく、集団に属さない限り、集団には入りづらいというただの事実を書いている(負け惜しみみたいなものですな)。

これは、十数年前に都内某桜の名所で起きた、実際のできごとである。

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第百二十三話「ある若者が恋愛の過程で恐怖を覚え、そして哀しみに沈む話」

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「プロムナード」ピエール=オーギュスト・ルノワール

人生で最大のギャンブルは恋愛である、というのが持論である。



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作者 寿
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ふと思う。スロ歴ってどれくらいなんだろう? 今年で20年? そんな経つ? ピーいれたいね。スロットばっか打ってるわけじゃなくて、普段は小説書いてんすよ。ちっとも売れないけどね。つうか売ってないしね。けどこのブログだと読めんすよ。フォウ!

ブログポリシー「my rights sometimes samurai!」
当ブログは、寿という人でなしが小説を書くなかで、
また、スロットを打つなかで、
はみ出たものを一所懸命につづったものです。
基本的に毎日更新してはいますが、
毎朝グビグビ飲めるというほどあっさりした、
また、健康的な文章ではありません。
油ギトギトのラーメンというほどではないと思いますが、
胸焼け、食あたりを起こす可能性がある由、ご留意くださいますよう。

また、コメントは大歓迎です。
引用ももちろん大歓迎ですが、引用元の記事を明記していただけると幸いです。
それでは今日もはりきって行きましょう! どこへ? パチンコ屋へ。
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