書くこと、賭けること

どうもはじめまして。スロ小説家のブログです。

すべての書かれたもののうちで私が愛するのは、自分の血で書かれたものだけだ。
血で書け。そうすればきみは、血が精神であることを経験するだろう。

フリードリヒ・ニーチェ 永井均訳
「ツァラトゥストラはこう語った」
読むことと書くこと、より

超短篇小説

第百三十四話「あ、アナと雪の女王、だと?」

先日街を歩いていると、同級生に再会し(十数年振り、気づいたのが奇跡というレベルである)、立ち話もなんだし、とお茶をすることになった。

「今何してんの?」と聞かれて小ウソをついて(スロ人あるある)、適当な近況報告を交し合い、なぜか「アナと雪の女王」の話になった。
当然、ぼくは見ていない。同級生(以下、幼なじみ)は見た、めっちゃよかった、泣いた、と言う。

「あの映画って、あの雪の女王の歌にすべてがつまってる(ように感じる)から、あのPVだけでおれは大満足なんだけど」とぼくは言った。「あれだけで泣ける」
「いや、見たほうがいいよ」
「いや、いいよ」
「いや、見たほうがいいよ」
「いや、いいよ」
という不毛な会話の後で、ディズニーあるいはCGアニメの話になり、お互いの好みがさっぱり合わないことが判明した。

幼なじみが好きだと言ったのは、
「ラプンツェル」である。

奇遇なことに、ぼくが嫌いなのは、「ラプンツェル」である。

幼なじみは「モンスターズ・ユニバーシティ」も好きだと言う。

ぼくの中で「モンスターズ・ユニバーシティ」は、ちょっと人にはお勧めできない映画である(もう少しきつい言葉で言えば、あの素晴らしいモンスターズ・インクの続編が、なぜ? という映画である。スロットで言えば、初代北斗とSEの関係である)。


ブログには好きなことしか書かないと決めているが、偶然ついでに今日はその禁をおかしてみようと思う。

嫌いなものの嫌いな理由をあげることはたやすい。
だって嫌なのだ。

もちろんそれではわかりづらいので、「塔の上のラプンツェル」という映画で説明を試みたい(好きな人は申し訳ありません。名残惜しいですが、ここでお別れをいたしましょう。ネタバレが嫌な方も同様にお願いします)。


「寿が見たラプンツェル」

とある王国を統べる王と妃の娘、ラプンツェルは、生まれて間もなく魔女にラチられ、王国から遠く離れた塔に幽閉され、妙齢まで育つ。が、いかにも現代的なアニメらしく、この魔女はすべてを欲しがる昔かたぎの(笑)魔女ではない。ただ若さが欲しいのだ。
彼女は生まれたばかりの王女、つまりラプンツェルの髪の毛があれば、その若さを保つことができると知り(何じゃそりゃ)、じゃあラプンツェルをラチってしまえ、と行動に移す短絡的かつ極めて自己中心的な人物。
その魔女のために、ラプンツェルは一度も髪を切ったことがない。伸ばしっぱなし。ロング(ゲ)というレベルをはるかに超えている。
といって、ラプンツェルは不幸には全然見えない。彼女にとって魔女はちょっと冷たいくらいのお母さんだし、何よりカメレオンという親友がいる。歌を歌いながら日々の雑事をこなすさまも、あの不幸の代名詞、シンデレラとは比べるべくもない。もちろん、人道的な見地に立てば、人権を侵害した、とてつもない犯罪行為なのだ。それは間違いなく、魔女は糾弾されるべきなのだ。

しかし、そのような現代性を持ち込んでしまったことにより、観客は、というかぼくは、こう思ってしまった。こんな風に天真爛漫に育ったのならば、親の教育が悪くなかったのではないか? と。

育ての親、すなわち、魔女である。

ありのまま、生まれたままで大人になることは不可能である。ありのまま、生まれたままというのは、野獣に等しい。そのために教育があり、適切な成長を促し、時には出る杭を打つ大人の存在が必要なのだ。
子どもがまっすぐ育つには、資質もさることながら、周りの環境と、サポートする大人の存在が不可欠ではないか。
その意味で言えば、魔女の教育は、最高とは言えないものの、劣悪ではなかったと言わざるを得ない。

ここからの展開もなかなかのものなのだが、魔女がいない間に、王が住まう城(もちろんラプンツェルの生まれた城)からお宝(本来、ラプンツェルが戴冠すべきティアラ)を盗んだ若き盗賊が、王国の衛兵から追われて忍び込んでくる。
ラプンツェルは、その盗賊を自慢の髪(!)で撃退し、ティアラを取りあげ、お宝を盗賊に返す条件として、私を外に連れてって的なことを言う(魔女にばれないように、後で帰ってくるつもりだった)。
「しょうがねえ、じゃあ行くか」と外に出るふたり。

気づいた魔女は、激おこ。憤怒の表情で追いかける。熾烈なチェイス。ラプンツェルは自慢の長い髪を振り回し、アクション、アクション。最終的に、魔女は死亡。王と妃は大歓迎でラプンツェル及びイケメン盗賊を王家に迎え、めでたしめでたし。

うーん、こう書いてみると、この映画、けっこう面白いんじゃないか、と思えてくる。笑

幼なじみとの会話に戻ろう。

「まず、魔女は殺されなければいけなかったのか?」とぼくは言った。
「事故だし」と相手は言った。
「いや、明確な意志がない限り、作品はつくりえない」
「は?」
「誰かが魔女を殺すシーンを描かなければ、魔女は死なない」
「は?」
(理解されていないようだから、先に進もう、と思う)
「それから」とぼくは言った。「王家に泥棒を迎え入れて、果たしてその国民は納得するのだろうか?」
「いやいや、そこまで考えないでしょ、普通。ファンタジーだし」
「ファンタジーだからこそ、その世界に没頭できない要素は排除するべきではないか」

「てか、ラプンツェル何回見たの?」と言われた。
「一回」と答えた。
「何でそんなに覚えているの?」
「わからない」
「それって好きってことじゃないの?」
「……」

今、嫌いな理由を述べたじゃないか。どうしてそれで、ぼくがラプちゃんを好きなことになってしまうのだ!

「じゃあ、寿はディズニーだと何が好きなの?」と聞かれる。
「美女と野獣」と答える。
「いやいや、美女と野獣のほうがありえないでしょ」と言われる。

そんなことを言われると、さすがの寿も憤慨する。しかし、好きの理由をただちに明確に言うことは難しい。

「ありえるとかありえないの話をしているわけじゃない」
「アリエル? リトルマーメイドの話? はは。うける」
「違う!」
「じゃあ何の話?」

「……ガストンって悪役の頭の悪さがさあ」とぼくは言う。
「え? ただのクソヤローじゃん」と言い返される。

「まあ……」

「ベルのあの読書以外に興味のない感じがさあ」とぼくは言う。
「あんな女いないよ」

「まあ……」

「野獣が愛を知り、成長し、そして自分を取り戻す経緯がさあ……」
ぼくの言葉をさえぎり、幼なじみは言う。「野獣ったって王様じゃん。王様が何したってそもそも王様だし。だったらまだ泥棒の彼のほうが深みがあるんじゃない?」

「……」

このように、嫌い、あるいは否定的見解というのは、すべてを拒絶する、驚異的な暗黒パワーである。
それに比べて、好きのこのか細さ。

だからこそ、ぼくはブログに嫌いなことを書かないようにしていたのだ。

「ねえ……」唐突に幼なじみは何かを言った。

が、美女と野獣をどう推すかに集中していたぼくは聞き逃してしまった。「え?」

「もしかして、まだあのことを気にしてる?」

「……何が?」

「寿が悪かったわけじゃないでしょ?」

「……」


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第百二十六話「桜の森の満開の下のネズミ」

以前は大人数で行動することもあった。

飲み会だとか、花見だとか、忘年会だとか、新年会だとか、そんな類のイベントは、むしろ好きなほうだった、と思う。
今は誰かと会うといっても、ほとんどはサシ。大人数で飲むことなど皆無。別にそれを嘆いているわけではなく、集団に属さない限り、集団には入りづらいというただの事実を書いている(負け惜しみみたいなものですな)。

これは、十数年前に都内某桜の名所で起きた、実際のできごとである。

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第百二十三話「ある若者が恋愛の過程で恐怖を覚え、そして哀しみに沈む話」

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「プロムナード」ピエール=オーギュスト・ルノワール

人生で最大のギャンブルは恋愛である、というのが持論である。



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百七話「感情を練習する」


   喜


 今のほとんどのスロットには、プレミア役というのがついている。そしてそれは数万分の一というような確率である。けっこうな確率ではあるのだけど、現実可能な確率でもある。

人間は、誰もが主人公である。が、現実は、数十億人の主人公を許容するほど甘い世界ではない。能力には差があり、持っている資産には多寡があり、椅子取りゲームで勝てるのはひとりだけである。

 けれどパチンコ屋の中だけは、現実的な可能性として、人がうらやむ主人公になれる可能性があるのだ。

 それが喜びか? と言われるとわからない。むしろ苦しみかもしれない。

 でも、やっぱりフリーズ引いたら嬉しいですよね。

   

   怒

 

 ある漫画の中で、人が怒る理由を観察しろ、というアドバイスをする人がいた。でもその漫画が何かは覚えていない。それでもその台詞だけはどうしてだか覚えている。言葉って不思議だ。

 たぶんその人間の思考システムを知れということなのだろう。ある人間は宗教心を最優先事項とする、ある人間は社会的道徳を最優先事項とする、ある人間は家族を、ある人間は金を、ある人間は名誉を。

 短気は損気というが、何をされたら許せないかを自分で把握しておくことは重要な気がする。そして、スロットに負けて(自分を、また、店を、また、メーカーを、また、他人を)許せないという人は、スロットを打つべきではないと思う。また、逆に、スロットに勝つと、その勝ちを守ろうと、怯える心が生まれる。これも取り除くべき要素だと思う。得たもののせいで自由でなくなるのだとしたら、何のための勝利であり、獲得だろう? そんなもの、捨ててしまえ。
 自戒の念をこめて。


   哀


 初めてパチンコ屋に入ったのは十四歳の夏だった(社会にはある種の寛容と、それから無知と習慣とによる不寛容がはびこっていた。もちろん、今と比べると、ということだ)。私は現金機と呼ばれていた台に百円か五百円を投入し、じゃらじゃらと出てくる玉を機械仕掛けのハンドルでもって弾いてみた。どこを狙っていいやらさっぱりわからず、とりあえず周りの人と同じようなところを目がけていると、中央やや下部の花みたいな形をしている入り口に玉が吸い込まれ、ど真ん中に設置された液晶画面の中の数字が軽薄な音と共に動き出した。3、2、6。ハズレということだろう。それが続いていく。どうなったらこれは当たるのだろうか? わからない。周りを見ると大きな箱を何箱も積む御仁がいる。百円だか五百円はあっという間になくなる。ポケットにはもう小銭がない。千円札を両替して、五百円。すぐになくなる。アホくさい。これが初めてのパチンコに対する感想だ。もう五百円。もう五百円。もう五百円。もう五百円。ん、数字が揃った。大当たり、なのか。じゃらじゃらと玉が落ちてくる。じゃらじゃらと、じゃらじゃらと……
 気づくと今年、三十四歳である。


   楽


 演技のレッスンで、人間の感情「喜怒哀楽」を、それぞれ無声で表現するという課題があった。喜怒哀は比較的誰の演技でもそれとわかるのだけれど、楽に関しては、それが何を表現しているのかさっぱりわからないものが多かった。それに、喜ぶとの区別がつきにくいのだ。
 私の選択は、自宅の部屋での一コマだった。まず目を閉じて寝そべっている。寝そべりながら、寝返りを打ち、寝返りを打ち、目を開けて、もう一度目をつぶる。目を開けて、携帯電話をのぞき、もう一度目を閉じる。要は眠っているところを表現したわけだ。「わかりにくいね」と講師に言われた。

 私の表情をちらっと見た後、表現ってのは表に現すって書くでしょう、と講師は言った。はい。と私はうなずいた。
「じゃあ次の人」

 はい。と別の誰かが立ち上がる。表情だけの演技が続いていく。わかりやすいとかわかりにくいとかの前に、楽って何だろう? と思いながら、私は他人の表現を眺めていた。

 スロットしたいな、と思った(喜にもどる)。

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作者 寿
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ふと思う。スロ歴ってどれくらいなんだろう? 今年で20年? そんな経つ? ピーいれたいね。スロットばっか打ってるわけじゃなくて、普段は小説書いてんすよ。ちっとも売れないけどね。つうか売ってないしね。けどこのブログだと読めんすよ。フォウ!

ブログポリシー「my rights sometimes samurai!」
当ブログは、寿という人でなしが小説を書くなかで、
また、スロットを打つなかで、
はみ出たものを一所懸命につづったものです。
基本的に毎日更新してはいますが、
毎朝グビグビ飲めるというほどあっさりした、
また、健康的な文章ではありません。
油ギトギトのラーメンというほどではないと思いますが、
胸焼け、食あたりを起こす可能性がある由、ご留意くださいますよう。

また、コメントは大歓迎です。
引用ももちろん大歓迎ですが、引用元の記事を明記していただけると幸いです。
それでは今日もはりきって行きましょう! どこへ? パチンコ屋へ。
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血がたぎります。

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