ブログをはじめて以来、毎日コツコツと更新してはいたものの、コメント欄には不動の守護神のように0が居座っていた。コメント件数ゼロ。正直なところ、コメント? 都市伝説だろ? とか思っていた。
そのまま二ヶ月が経過した。記事に対する初めてのコメントは、忘れもしない第四十六話。今は休止されているが、青田ガリィさん からのものだった。爾来、返信を心がけていたのだけど、唯一返信できていないコメントがあった。
去年の7月15日、第百六十四話「予想というギャンブルが苦手」という記事でいただいた、
「文章下手過ぎ! ワロタ」
というコメントである。
この文言を目にしたとき(それはちょうど、パチ屋の駐車場だった)、ヘタヘタとその場に倒れこみそうになった。
たしかに、ぼくの文章は上手ではない。それは自分でも承知している。しかし嘲弄の対象と思うとやりきれなかった。いったい全体、ぼくは今まで何をやってきたのだろう? 何年も何年もかけて、嘲笑されるものを磨いていたのか?
数日を虚ろな心で過ごした。しかし文章は書いた。スロットもした。ブログを更新しもした(翌日の稼働日記は悲しみに溢れていた苦笑)。何か返信しよう、何か返信しよう、と思っている間に時間が過ぎていった。色々な試みをした。純文学すろっと小説と題し、ブログで小説を発表した。小説を書くだけの修業的生活についても綴った。非等価地域に居を移してスロットを打つ日々を綴った。幸運なことに、ブログを見てくれる人の数は増え続けた。徐々にではあるが、精神は恢復していった。そして9ヶ月が経過した。そろそろじゃね? と思う。何が?
件のコメントと向き合う日がやってきたのだ。
すべての行動は、し続けてさえいれば、ある程度は上達する。というか、嫌でもしてしまう。でも、ぼくの目指しているのはそこではない。文章なんて下手でいい。自分のつくりたい作品であれば、それが最高形である。下品であれ、低俗であれ、書くこと、賭けることの範疇であれば。
それはむしろ、技術よりも、コミュニケーションの問題だったのだ。下手と言われて傷ついたのは、ただ単にぼくが未熟だっただけだ。自分の文章の射程距離を見誤っていたのだ。ぼくはスロットと文章の日々の中で反省した。そして今、志を新たにした。というか、更新した。
まかりんさん、返信遅れてすいませんでした。ようやく返信することができました。
改めて、言葉ってすげえな、と思う。たった十文字で人の気持ちを変質させてしまうのだ。あるいは、ぼくが今まで毎日文章を書いてきたことで、誰かを不快にさせたり、誰かの気持ちを傷つけてしまった可能性もある。それに対しては、本当に本当に申し訳なく思う。謝っても済む問題じゃないとも思う。
でも、同時にこうも思う。呪いと祝いはほとんど同じものである、と。
それがほとんど同じ力ならば、ぼくはその力を否定よりも肯定に使いたいと思う。人はそれを偽善的だ、と言うかもしれない(字面だけ見たらぼくだって思う)。が、ぼくは本当にそう思うのだ。
生きている以上、楽しい日々を送りたい。じゃない?
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