書くこと、賭けること

どうもはじめまして。スロ小説家のブログです。

すべての書かれたもののうちで私が愛するのは、自分の血で書かれたものだけだ。
血で書け。そうすればきみは、血が精神であることを経験するだろう。

フリードリヒ・ニーチェ 永井均訳
「ツァラトゥストラはこう語った」
読むことと書くこと、より

無手で生まれたことを思えば

スロットを打つにしろ、誰かに雇われるにしろ、会社を立ち上げるにしろ、小説を書くにしろ、とにかくネックとなる我が欠点」

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誰でもそうなのかもしれないが、時々、自分でいることにうんざりする。その理由を述べる。

1、頭が悪い。

本を読む。世界を見る。そして自分の頭で考えようとしている。つもりである。
が、土台の土台、根本の根本である頭が悪い。どうして自分の頭が悪いのか、理解できないくらい頭が悪い。

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第二百二十五話「答えなんて外にはねえ。自分の中にしかねえんだよ」


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夏休みの宿題的に、「思い出のマーニー」を見ての雑感を、読書感想文程度(原稿用紙3枚)の文字数で語ってみたいと思います。


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第百九十七話「『ハレにはケ。ケにはハレ』魔法少女たちの犠牲をどう受け止めるか」

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ずいぶん前に「劇場版まどか☆マギカ新編 叛逆の物語」のブルーレイを買っていたのだけど、手付かずのまま放置されていた。

ぴょろり論を書くにあたって、アニメ「バジリスク」と原作小説「甲賀忍法帖」を連続で見て、それで思い当たったのが「魔法少女まどか☆マギカ」のことで、そしてぼくは今エコトーフのようにスロット省エネモードなので時間が少しある。おまけにお盆休みである。ということで、いい機会なので映画三作を一気に見ることにした。

今回はぴょろり論のような、どこかに隙間を見つけて「仮説」をはめこんで、何かしらの「結論」を出す、という長々とした文章にはならないと思うので(たぶん)、お付き合いいただきたい。

物語の核になっているものは何か、ということをつらつら考えていくと、エンターテイメントの場合、「犠牲」というキーワードが浮かんでくる。

これは何も「まどマギ」だけの話ではない。それはエンターテイメントの基本が「ハレ」にあるからである。

「ハレ」というのは、「晴れ着」「晴れの日」「晴れ舞台」のハレであり、ざっくり言えば非日常ということであり、対義語は「ケ」、すなわち日常である。

「ハレ」と「ケ」という言葉は日本独自のものだろうが、 日常と非日常という概念の往復が、世界中の人間にとっての生活(宗教的生活)の基本となっているのは間違いなく、世界中で祭りのない宗教または共同体は(たぶん)存在せず、そして往々にして、非日常の極みである「祭り」には、何かしらの犠牲が用意されるのが、常である。

古くは神に感謝をささげるために乙女をささげたり、農作物を捧げたり、大切な家畜を捧げたり。あるい相撲が神事だったのもそうだろう。

祭りの本質には人間の残虐性があり、そしてそれは、社会性を尊重しなければいけない日常への反動でもある。
人間の社会性を一時的に反転させてしまう祭りに人々が我を忘れて没頭するのもしょうがないことなのだ。
人間が変わっていない以上、現代においてもそれは変わらない。
たとえばオリンピックやワールドカップには必ず敗者が生まれる。
たとえば「誰かの不用意な発言や行動」がインターネットで拡散されると、お祭り騒ぎになる。

「社会性」という無理難題を強いられている人間存在を解き放つ「イベント」が用意されることは、ある種ガス抜きの要素もあり、一概に悪とは言えない。
そして「物語」もそのひとつなのだ。

「本当は残酷な~童話」と言ったりするけれど、残酷なのは童話ではなく、我々の本性である。
その我々のどうしようもない残虐性を、ぼくらに代わって天膳やキュウべぇが代行してくれる。伊賀忍と甲賀忍が殺しあってくれる。あるいは、魔法少女と魔女が殺しあってくれている。
それを見て一喜一憂するぼくの業は深い。

いや、ぼくだけではない。「カワイイ」という言葉に隠された「他者を見下す視線」という娯楽。幼児体型がかわいい、舌足らずがかわいい、訛りがかわいい、肉がついているのがかわいい、髪が薄いのがかわいい、幼いがかわいい、老いがかわいい、etc.
しかしその「カワイさ」を感じる心の根幹にあるのは「安心」なのだ。

そう、尊い犠牲を見て頬を伝う涙は「安心」の証拠なのである。ぼくたちがぬくぬくと生きている、ぬるま湯のような場所から見下ろしている証拠の物質なのだ。

ぼくが純文学小説を書いているのは(たぶん)その反動である。アンチ日常である非日常のアンチ。ぼくがパチ屋を日常的な空間にしているのも(たぶん)その反動である。

古来よりこの地における遊民は多分に差別をされながら、「非日常」を「日常」に変換させ、「日常」を「非日常」に変換させる術を磨いてきた。
敵の敵は味方。裏を返せば同じもの。

人生を賭けて、ぼくはそれを手に入れたい。スロットにしろ何にしろ、ぼくはギャンブルにゼンツッパはしない。けれど小説を書くという非日常的行為にすべてを捧げる。
ブンガクにゼンツッパ。
わけがわからないよ、と言われるだろうけれど。

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第百二十八話「スロットで負けても、恋破れても、人生は続く」

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「雪松図屏風」円山応挙

人生で最大のギャンブルは恋愛である、とぼくは書いた。喜色満面の笑みで、どや、と。


なぜ、ギャンブルに負けるとつらいのか。

なぜ、恋愛でうまくいかないとつらいのか。

それは、ひとつの死だからである。レスポンスの返って来ないもの、それらはすべて死と同義である。キーボードをタンと叩く。「キーボードをタンと叩く」。よかった。まだ、生きている、とは思わない。極めて普通の現象だとぼくは思う。しかし、これがキーボードをタンと叩き、
























無反応だったら、動揺する。

無視されるのがつらいのも、同じ理由である。
それを他人にする。それは肉体こそ伴わないが、殺傷行為である。そう思う。

今日はぼくなりに、死を定義したいと思う。死。それは打っても響かないこと、つまり、「レスポンスの不在」である、と。

ぼくたちは(少なくとも自分のことを人間と定義しているなら誰だって)、不在に耐えられない存在として、存在している。

そんなぼくらには、これから、恐ろしい未来が(ほぼ確実に)待ち受けている。

愛するものの死、友の死、大恋愛の末の破局、事業の失敗、体力の低下、まずいラーメン屋に入ってしまう、バジ絆フリーズで300枚しか出ない、設定六で憤死、エトセトラ……, etc.

何にせよ、それらは自分の死、もしくは死に限りなく近いできごとである。

本当の自分の死については、思い煩う必要はないと思う。おそらく自分の死を自分で受け止めることはできないだろうから。
オラは永遠に生きる、という幼児的な魂が少しばかり残っているけれど、それでも自分の死は無と同義である、という感覚のほうが強い。

とすれば、死というものは、「レスポンスの不在」という形でしか、体験できないのである。
死に慣れることなんてできはしない。それでも、そのことを「ある」こととして受け止めることはできる。いや、できる、はずである。
だってぼくらは知っている。ギャンブルに手を出せば、ほとんど負けるということを。
そして自分の欲しいもの、手に入れたいものというのは、確率が低いということを。

ギャンブルの定義は色々あると思うが、ぼくは森巣博の言った「合意の略奪闘争」という言葉に合意したい。
ポイントは「合意」である。

もちろん恋愛も、第一に相手との「合意」が必要だろう。一方的な恋愛は空想的であり、場合によってはハラスメント的なものである。恋愛はひとりではできないのだから。

すべての依存症、わけてもギャンブル依存の問題は、この「合意」の部分が、麻薬的あるいは催眠的、つまり半強制的なところにあるのでは、と思う。自分のお金を自分の意志でかけて、戻ってこなかったら許せない、というのは、その「合意」に合意できていない証拠であると思う。
ぼくにとって敗北の味はいまだ苦く、苦しく、合意、そして納得の境地に至らないのが実情であり、精進しなければ、と決意を新たにする所存であるが、その合意の部分を、全員が納得でき、かつ、その場に臨むとしたら、どのような種類のギャンブルであれ、精神と肉体の極限の戦い、つまり、アスリートの棲むような修羅の世界と化すだろう。
おそらくギャンブルはそこまでの修羅場ではない。合意できていない人から、合意できている人がかっぱいでいくからである。

合意の前提には、ルールがある。そして同じルールで争った場合、ルールを熟知している人とルールを把握すらしていない人では、まず前者が勝つと相場が決まっている。
後者はルールに縛られるが、前者はルールに合わせて自分を調整できるのである。

箱に入れられた二匹の虫を想像してみると、わかりやすいかと思う。片方は箱の大きさを熟知しているが、片方は知らない。当然、後者の虫は、生存の欲求そのままに、飛んだり跳ねたりしようとする。しかし、箱の形に邪魔されるのである。前者の虫は、自滅を待つだけでよい。

勝ち方などというものはない。
負け方を熟知しているかどうか。

……いや、そんなことすらどうでもいいのかもしれない。

ぼくの定義した死というのは、まったく一般的な死ではない。スロットに負けたくらいで死というのなら、パチンコ屋は巨大なトラップであり、台はキリングマシーンであり、メーカーは死の商人になってしまう。
死=「レスポンスの不在」。それはほとんどぼくの造語、つまりファンタジーである。だからテクニカルな話はやめよう。

大切なことは、ぼくが本当に大切だと思うことは、何が起きても人生は続く、ということだ。
何が起きても人生は続く。
どうして? という疑問に意味はない。
それはただ、そういうことなのだ。
ふざけんな、と言っても何の効果もない。
天に唾をはいても、顔にかかるだけで、人生は続く。
他人を傷つけても人生は続く。
自傷しても、もちろん人生は続く。
死、すなわち、レスポンスの返ってこない行為を何度重ねても、人生は続く。
フラれても、スロットに負けても、友がこの世からいなくなっても、明日になればまた日は昇る。曇っていても、台風の日でも。

ゲーテは言った。

「コントロールの効かない行為は、
 どんな種類のものであれ、 
その行き着く先は、破滅だ」 と。

この言葉はとても大切なことを言っていると思うので、何度でも使いたい。

この地では、古くからパワーはコントロールできないもの、と定めていた。相手は八百万の自然だった。地震、雷、火事、オヤジ、台風、旱魃、疫病、云々。だから、あえて壊れやすいものを壊れやすいようにつくり、それを修繕し、あるいはつくりなおし、それで脈々と保ってきた。
何を。
たぶん、空気感のようなものを。

今からおよそ800年の昔、鴨長明はこう言った。
「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と。

その頃あった川で、まだ現存している川はいくらでもある。しかし、その内容はさっぱり違う。それを見つめる人間の目も、その川の中に住む生物も。

場所は変わり、今からおよそ1330年の昔、唐代の詩人はこう言った。
「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」と。
(ねんねんさいさいはなあいにたり、さいさいねんねんひとおなじからず)
年がたっても花は似た形をしているが、それを見る人間の顔ぶれは全然違う。

逆もまた、真である(と思う)。

パチンコ屋に居る人は、どこの地域でもわりと似たような人が多い。たぶん、どこかのパチンコ屋から、違うパチンコ屋にテレポートしたとしても、違和感がないのでは、と思うくらいに似た雰囲気がある。
海外に出る。CASINOに入る。そこでも似たような人が、似たようなことを、している。

いつも居る人、同じ人、似たような機種を、似たような顔で打っている。いつも、いつまでも。

どんなことが起きても、人生は続く。


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第百十三話「何かに依存しないために」

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人間はすべて、「空気」「食料」「水」「睡眠」「生活空間」などの、中毒者である。


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作者 寿
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ふと思う。スロ歴ってどれくらいなんだろう? 今年で20年? そんな経つ? ピーいれたいね。スロットばっか打ってるわけじゃなくて、普段は小説書いてんすよ。ちっとも売れないけどね。つうか売ってないしね。けどこのブログだと読めんすよ。フォウ!

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当ブログは、寿という人でなしが小説を書くなかで、
また、スロットを打つなかで、
はみ出たものを一所懸命につづったものです。
基本的に毎日更新してはいますが、
毎朝グビグビ飲めるというほどあっさりした、
また、健康的な文章ではありません。
油ギトギトのラーメンというほどではないと思いますが、
胸焼け、食あたりを起こす可能性がある由、ご留意くださいますよう。

また、コメントは大歓迎です。
引用ももちろん大歓迎ですが、引用元の記事を明記していただけると幸いです。
それでは今日もはりきって行きましょう! どこへ? パチンコ屋へ。
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