実は小説を書き始めてから、割と早い段階で某文学賞の一次を通過した。そのときは二次で落ちてしまったが、数年後、スロットに依存する少年と男に依存する少女を描いた小説で、同じ文学賞の二次に残った。
その文学賞は1000以上の応募作品から一次選考で100作程度に絞られ、二次で20作品くらいが残る。くわしい数字は覚えていないけれど、たしかそんなもんだったと思う(今ネットで調べたら16作品だった。すげえじゃんw)。
おめでとう。ぼくが書いた小説は、文学賞応募者の上位2%にくいこんだわけだ。
so what?
そう、こんなものは才能とは呼べない。他の選択肢をぶん投げ生活のすべてを捧げて書いた小説が賞を取れないのだ。それから数年経つが、その先の扉をこじ開ける作品は書けていない。いや、それどころか、ここ2年は一次に残る作品すら書けていない。謙遜でもなんでもなく、ぼくの才能なんてそんなもんなんだ。つまり、掃いて捨てられる級。
もうやめちゃえば? と誰かが言う。
そうだね。そうかもね。でもね、ぼくは小説を書くと決めた。才能のないぼくが決めたんだ。その前提をひっくり返して才能だなんだって悩んでる時間もったいないじゃん。
そう、人間は時間を大切にする生き物だ。ぼくがアホみたいに時間をかけて書いた小説を、読む人は一瞬で判断するじゃないか。ポイッと。ヘタだね。以上。ポイッ。と。
よろしい。ならばあなたを沈黙させる作品を書きましょう。それしかないんだ。結局。その決意は、その覚悟は、才能みたいな言葉では言い表せやしない。
「スロットで勝つのに才能は必要か?」
答え。いらない。
何だってそう。人間、持ってるもので勝負するしかない。ないものねだりしちゃう? 親を恨んじゃう? 甘えんじゃねえ。才能だとか運命だとか持ってるだとか持ってないだとかヒキだとか運だとか、やらないことの言い訳は、捨てちゃおう。何かのせいにする、誰かのせいにする、ねたみ、ひがみ、捨てちゃおう。
巨大な才能を持つ人間がどこかにいたとしても、それはぼくには全然関係ない話だ。だってぼくは自分しか動かすことができないのだから。
あ、はじめましての人もいますかね? どうも、スロ小説家、寿です。
パチ屋のなくなった世界で