書くこと、賭けること

書くことを賭ける。賭けることを書く。とどのつまりは遊び。Life is the gambling you know?

「寿という言葉は経験による人の円熟という意味に使われていた」
「成功は、遂行された計画ではない。何かが熟して実を結ぶ事だ。其処には、どうしても円熟という言葉で現さねばならぬものがある。何かが熟して生れて来なければ、人間は何も生むことは出来ない」

小林秀雄「考えるヒント」より

遺言

失敗者に学べ!

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人はみな、成功者に学べと云う。が、失敗をどう挽回すればいいのかということは教えてくれない。というのはたぶん、失敗というのは、個人差があるからだ。

幸福な家庭はすべてよく似たものであるが、不幸な家庭はみなそれぞれに不幸である、というのは、レフ・トルストイの小説に出てくる言葉だが、ぼくの場合、失敗の多くは、勘違いという形をとる。うかつな人間だからだろうか。ただ、失敗には、巻き込み型と、自爆型があり、勘違いという失敗のいいところは、ほとんどの場合、自己責任で済むことだ。

ということで、今日はイタリアの話をしたい。小さい頃から、イタリアの物語や、歌曲、料理に親しんできた。何といっても、極め付きはイタリア映画。ニューシネマパラダイスは人生ベスト5に入る映画だし、ライフイズビューティフルの初見は阿呆ほど泣いたし(2つの映画タイトルが英語というのが示唆的でもある)、フェデリコ・フェリーニの8 1/2はビデオテープを購入した。エンニオ・モリコーネの曲はどれを取っても魂を震わせるし、硬めラーメン好きはアルデンテのパスタと相性よし。ポルコ・ロッソ。ジョルノ・ジョバーナ。サイゼリヤ。美しきイタリアの語感(その実日本産)。いつしかぼくは、イタリアを理想の土地だと思い込んでしまった。今にして思えば、それは「ここではないどこか症候群」(a.k.a.自分探し)のひとつの青い照明に過ぎなかったのだが、ともあれ、念願叶ってイタリア半島の地(正確に言うと空港の敷地)を踏んだのは24歳だった。ミラノ・マルペンサ空港。そこで飛行機を乗り継ぎ、ローマに向かう予定だった。

とはいえ、そこは理想郷イターリアの一部。ワクワクしつつ、まずはエスプレッソでも飲もうとカフェ(BARと書いてバール)に入る。

天使が待っているんだろう、という予感はあった。しかし、レジの前に立つ中年女性は、何か文句あるんかゴルァという顔で立っていた。注文を聞くというよりも、何か変な動きを見せたら、カウンターの裏に隠してあるマシンガンで蜂の巣にしてやるというポーズにしか見えなかった。ファンタジーというよりは、マフィア映画の緊迫感である。ぼくは演技を学んでいたから、その人が表情で何を表現したいかは熟知しているつもりだった。怒。怒。怒。怒。どこをどう見ても、怒っている。彼女はいったい何に怒ってるんだ?

この瞬間、ぼくの中にあった熱は少し冷却された。飛行機を乗り継ぎ、ローマの玄関口たるレオナルド・ダヴィンチ空港に着いたのは夜だった。バスでホテルに向かい、移動疲れもあって早々に寝た。そして、翌日、ローマのローマにくりだした。ローマのローマによるローマのためのローマ。見覚えのある景色がどこまでもどこまでも広がっていた。ぼくたちが普段目にする西洋風の建築物、テーマパーク、ラブホやデパートやショッピングモール等々のオリジン(起源)。いや、実際そうなのだ。世界中にある、およそテーマパーク的要素のあるすべての建物は、この街の不出来な子分なのだ。おそらくは、テーマパークという概念自体、この街を模すことで生まれたのだろう。すべての道はローマに通ずる。ノラ猫にまで品を感じる。なるほど、ここが、ローマか。

サイトシーイングの後で、待望の買い物タイムに突入する。KTゲット。あるは、あるは、当時のぼくの感覚では、品物のクオリティに対する値段が、日本の1/2くらいに思え、期待値を前にしたハイエナのごとき目で、店から店へと徘徊した。そう、ここは職人の国でもあるのだ。再点火した熱量で、シャツ、革靴、ベルト、と購入。そのままの気分でスペイン階段を駆け上がると、ノリのいい男に、ヨー、と声をかけられる。昼食時に地元産の白ワインを飲んでいたことも(隣の席に座っていた老修道女が、真昼間からもりもり肉を食べ、びしばし赤ワインを飲んでいて、この国はいい国だと思ったところで)あり、イエーとハイタッチ。
 男はへらへら笑いながら、「ナカータ、ナカムーラ」と続ける。
 ヒデに、シュンスケ。うむ、彼らはぼくらの誇りである。ぼくはにこやかにうなずいた。今ここに、三国同盟以来の友好が築かれるのであろうか?
 しかし、男はどういうわけか、ぼくの腕に布切れのようなものをはめようとしてくる。
「いらんいらん」ぼくは手を振った。
 すると、仲間が寄ってくる。
「こいつ何だって?」みたいなことを言っている。頭をよぎったのは、昨日のマルペンサ空港のカフェだった。ぼくは、中年女性のしぐさを忠実に模倣しながら、ノーグラツィエ(何か文句あるんかゴルァ)、と言い、すたすたと去った。

ふむ。また1メモリ、熱が冷めていく。地下鉄に乗って、ホテルに戻る。地下鉄では、ぼくのケツをもぞもぞと触ってくる人間あり。痴漢、ではない。体をすりつけるようにして金品を盗むことから中国の元代に名づけられたと言われる「スリ」である。はたして、スリは、旅行の日程表のようなものを盗んでいったのだった。馬鹿め、ケツポケットに大切なものなど入れるものか、と思いながらやり過ごし、ホテルに戻ってきて、今買ってきたベルト、靴、シャツをベッドに並べようとした。

……?

ぼくは空気しか入っていないブランドバッグをふるふると振った。そこに入っているのは空気のみ、そこから漏れ出るのも空気のみ。キリスト教の天使よろしく、羽を生やしてどこかに飛び去ってしまったのだろうかか? わかっているのは、セールで13ユーロ程で購入したエンポリオ・アルマーニのシャツが手元にないということだった。

彼らの手段はこうだ。

ぼくのケツポケットをもぞもぞすることによって(これが一人目)、ぼくの注意はケツに行く。その隙に、ショップバッグの隙間から、するするとシャツを盗み出す(もう一人)。そう、馬鹿はぼくだった。相手はコンビだったのだ。

アリアリアリアリアリーヴェデルチ。さよならだ。

こうしてぼくの勘違いタイムは終わった。後に残ったのは、革靴とベルトと、新たな認識である。イタリアが悪いわけではない。ぼくが未熟だっただけだ。ブランドの名が刻まれたショップバッグなどを持って、混み合ったメトロに乗るというのは、ワニがうようよいる池に裸で飛び込むようなものだ。安全性を求めるなら、タクシーをつかまえればよかったのだし、あるいは、買ったものはすぐさまデイバッグのようなものに入れて、抱え込むように持つべきだったのだ。

13ユーロ。当時の値段で1800円ほどの買い物は、意識の変革をうながしてくれた。あるいは、ぼくはシャツを盗まれることによって、得をしたのかもしれないとすら思う。十数年前のセール品だったシャツは、たとえ盗まれていなかったとしても、すでに使えなくなって捨てているだろう。だけど、このティラミスのような甘苦い記憶は、これから先も、ぼくを暖め続けてくれるだろう。

ティラミスには、こんな意味があるという。
「私を引っ張り上げて」

あるいは、シャツ自身が盗まれることを欲したのかもしれない。ありがとうシャツ。ありがとうエンポーリオ。
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スロッターもジャンキーも。人間だもの。

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天才の仕事

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ぼくが敬愛する人物には、陰がある。その陰は、黄泉の国まで伸びている。 ぼくたちは必ず死ぬ。もれなく死ぬ。だから陰のある人物に、どうしようもなく惹かれてしまう。たぶん、そういうことだと思う。

平成初期(または1990年代)という時代は、天才と呼ばれる人間が、次々に芽を出した時代であった。少なくともぼくの目にはそう見えた。プロ野球界ではイチローが、競馬界では武豊が、将棋界では羽生善治が、そして芸能界では、松本人志が、天才の名をほしいままにしていた。

そんな、選ばれし者の中で、最も濃い陰を引きずっているように見えたのは、松本人志だった。笑っていても、どこか寂しげだった。その目は常に、俺の笑いを真に理解している人間などこの世界にはいない、という哀しみと諦念が同居していた。

島田紳助が漫才コンビを解散する原因となり、立川談志が褒めちぎり、坂本龍一に「あのすごい才能」と言わしめた異能のお笑い芸人、松本人志。天才は、その表現ジャンルを根幹から変えてしまう。松本人志が変えたのは、漫才ではなく、日本そのものと言っていい。

松本人志の才能の特異性は、つまるところ、視聴者の想像の斜め上をピンポイントで狙撃する発想力だったように思う。

「シャンプーをしているときに後ろで感じる気配は何ですか?」と聞かれ、
「リンスです」と瞬時に答えるその発想。

ある脳科学者が、松本人志を評し、触れるもの全てを黄金(笑い)に変える「ギリシャ神話」のミダス王にたとえていたが、ミダス王は、触れるもの全てが黄金に変わってしまうがゆえに、何も食べることができず、餓死してしまう。

どうしてだろう? 2000年代に入り、松本人志という存在から、徐々に陰が薄くなっていったのは。大日本人、しんぼる、さや侍、R100、それはどう贔屓目に見ても、天才の撮った映画には見えなかった。10年後、20年後に再評価されるような気配も感じなかった。斜め上どころではない。どこにもピントが合っていない。ピントがずれているうえに、印象派的な揺らぎ、余白も残されていない。映画館の中で、あるいはテレビの前で、ぼくはそう感じてしまった。

人間としては、陰なんかない方が幸せなのかもしれない。ファンほど身勝手な人間もいない。勝手に陰を見て、勝手に投影し、勝手に崇拝する。勝手にも程がある。それはわかっている。が、一ファンとして、松ちゃんが提示してくれた「斜め上」が忘れられないというのも事実なのだ。

あるいは、変わったのは、ぼくたちの方かもしれない。松本人志を見続けた日本人の感性が、それまでの斜め上にピントを合わせてしまったということなのかもしれない。そのせいで、松本人志の生み出すものに、斜め上性が失われてしまったのかもしれない。あるいはただ単に、ぼくの感性が捻じ曲がってしまっただけかもしれない。その蓋然性は高い。だとすると、鑑識眼のなさをアピールするだけの文章をせっせと書いたということであり、どちらにしても、少し哀しい。

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まさかのストック切れ……

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スロット打ちの端くれとして



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率直に言って、ぼくは自分のことを秀でた人間だと思っていた。

が、たとえばヒップホップアーティストが、「オレサイコー」と言うのは、別に生身のオレが素晴らしい人間だ、という自慢をしているわけじゃなくて(もちろんそれも少しはあるだろうけど)、ビート(音)と、リリック(詩)と、オレ(神)の三位一体。ヒップホップという器の中のオレサイコーという、ある種の信仰告白をしているわけで。そもそも最高とは、これ以上ないということであり、そんな素晴らしい人間であるならば、言わなくても伝わるはずなのだから。ここで強調されるべきは、ヒップホップによる救済なのだ。

何の器もないのに、オレサイコーと思ってしまうのは、はっきり言うが(はっきり言っても、はっきり言わなくてもいいが)、勘違いである。またの名を裸の王様である。これはもちろん、ぼくのことだ。

ぼくは自分への、自分の未来への信頼から、小説を書き始めたのだった。そのこと自体は――うかつな人間を証明しているものの――、特に責められることではないように思う。すべてのワナビーはそこから始まるし、実際それで何かになれちゃう人もいるのだから。ただ、自分だけがそれを望んで、何かになれることはありえない。自分以外の誰かがそれを望まない限り、人間は何者にもなれないのだ。

ぼくの最大の勘違いは、いまだに自前の何かで勝負しようとしている節があるということだ。自分がサイコーの自分ではないことは、前半生が証明しているはずであり、だから小説で勝負しようとしたのではなかったのか?

では、何を借りればいいのだろう?(そもそもぼくに返すあてはあるのだろうか?)ただ借りるだけでは、同じことの繰り返しだ。あるいは、パクリと言われるだけだ。同じことを繰り返して、繰り返して、そうしてぼくは朽ちていくのだろうか? それもいいかもしれない。死ぬまでやりきれたなら、それはそれで人生を全うできたのだから。

が、ぼくは昨日、ストック切れをしたと書いたのだった。ストックが切れた台を打ち続けることはできない。それはさすがに、スロット打ちの端くれとしてできない。

ツムツム。どこからか、音が聞こえる。

ツムツム。どこからだろう?

図書館の中で、ぼくは打ちひしがれていた。文学、ルポタージュ、歴史、地理、エッセイ、マンガ、写真集、このスペースの中に、ぼくが入り込む隙間なんてどこにもないように思えた。そんなこと100も承知のはずだった。だからスロ小説などという造語を作ったのではなかったのか?

ツムツム。

ここが詰みか? 最終目的地か?

ぼくが手に取ったのは、古事記だった。現存する最古の日本文学(の現代語訳)である。

西暦713年に編まれたこの書物は、太安万侶(おほのやすまろ)という人が、四十三代元明天皇に話しかけるという形で始まる。この時代、日本にはまだ、「ひらがな」が存在せず、「カタカナ」も存在せず、カギカッコもなく、借り物の漢字だけで、自分たちの文化をどう表現するか? を表現しなければいけない立場の人がいたのだ。

安万侶(やすまろ)さんは言う。
「古い時代には言葉もその意味もみな素朴でしたので、それを文章にして漢字で記すのはまことに困難なことであります。漢字の訓だけで綴ると真意が伝わりません。音だけで綴るとただ長くなるばかり。そこで、この書では、ある場合は一句の中で音と訓を混ぜて用い、ある場合は訓だけで記すことに致しました」と。

ふむふむ。おそらくこの書物はぼくのために書かれたものだ。ぼくはそう感じ取り、古事記を手に席に座ることにした。

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作者 寿
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ふと思う。スロ歴ってどれくらいなんだろう? 今年で20年? そんな経つ? ピーいれたいね。スロットばっか打ってるわけじゃなくて、普段は小説書いてんすよ。ちっとも売れないけどね。つうか売ってないしね。けどこのブログだと読めんすよ。フォウ!

ブログポリシー「my rights sometimes samurai!」
当ブログは、寿という人でなしが小説を書くなかで、
また、スロットを打つなかで、トレードをするなかで、
はみ出たものを一所懸命につづったものです。
基本的に毎日更新してはいますが、
毎朝グビグビ飲めるというほどあっさりした、
また、健康的な文章ではありません。
油ギトギトのラーメンというほどではないと思いますが、
胸焼け、食あたりを起こす可能性がある由、ご留意くださいますよう。

また、コメントは大歓迎です。
引用ももちろん大歓迎ですが、引用元の記事を明記していただけると幸いです。
それでは今日もはりきってまいりましょう! どこへ? チャートの世界へ。
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