書くこと、賭けること

どうもはじめまして。スロ小説家のブログです。

すべての書かれたもののうちで私が愛するのは、自分の血で書かれたものだけだ。
血で書け。そうすればきみは、血が精神であることを経験するだろう。

フリードリヒ・ニーチェ 永井均訳
「ツァラトゥストラはこう語った」
読むことと書くこと、より

敗走日記

一番簡単な成功体験

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一般的に、男の欲望の向かう先は、「金」「異性」「名誉」と言われている。金があれば食いっぱぐれないし、名誉があれば、プライドが保てる。異性がいれば、主の保存欲求を満たせる。そのモチベーションを駆動させるのは「飢餓感」だろう。では、そのモチベーションの担保は何だろう? 私は、「自信」ではないか、と思う。

根拠なき自信。大多数の成功者が口にするファクターではあるが、まったく自信のないものに取り組むことは、そもそも難しい。もちろん、自信は、自然とわいてくるのが望ましい。が、誰もがそうではないだろう。剣呑なたとえで恐縮だが、ストリートファイトをしなければいけない状況にあったとする。
1度目に勝った。→相手が弱かっただけかもしれない。
2度目に勝った。→運が良かっただけかもしれない。
3度目に勝った。→あれ、自分は強いのか?
4度目に勝った。→もしかすると、強いのかもしれない。
なぜ、この人の精神は、変遷したのだろう? 成功体験を重ねたからだ。成功体験は自家製の麻薬である。あれは中学生の頃。菊花賞にて、1位ナリタブライアンから、2位ヤシマソブリン、3位エアダブリン、4位スターマン、5位ウインドフィールズ、という4点に予想を絞ったことを、今でも「全部当てたった。おほほほ」と思い出す(無論、ナリタブライアンーヤシマソブリン以外の馬券は無効)。私のような単純な人間は、一度の成功体験を、燦然と輝く思い出として保存している。

※このレースの1番人気はナリタブライアン、2番人気はヤシマソブリン、3番人気はエアダブリン、4番人気はスターマン、5番人気はウインドフィールズ。何てことはない。人気順にゴールした稀有なレースだっただけである。

とまあ、これは成功体験の暗部であるが、成功体験を正しく自信に変えるには、自らの意志で、狙い通りにことを遂行する必要がある。絶対に成功させなければいけない。運の要素があるものはダメだ。というわけで、一番結果が出やすいのは、自分を変化させることだろう。たとえば化粧である。たとえばファッションである。しかしながら、肉体を飾る行為は、成功と失敗がわかりにくい。ダイエットはリバウンドの蓋然性が高い。そこで、筋トレ。

しかるべき方法で筋肉に負荷をかけ、しかるべき栄養素を摂取し、休養する。これを続ける。すると、筋肉量が増えていく。これはあくまで、成功体験を重ねることを目的としている。筋肉ではなく、自信をつけたいのだから。だから別に、人に見せなくてもよい。というかむしろ、隠れている方が都合がよいような気がする。古来より、能ある鷹は爪を隠し、スーパーマンは、新聞記者であったわけだし。

ただし、自信がついたらついたで、次に問題になるのは、驕り高ぶり、という態度だったりする。目的と手段が入れ替わることは間々ある。勝てる(目的)からスロットを打っていた(手段)はずなのに、スロットを打つことが目的になってしまうというような。筋トレに興じるあまり、周りが見えなくなってしまうのは、これが原因か、と。

適度な自信と適度な懐疑心を備えるにはどうすればいいか? バランスの取れた人間になるためには? 目下、思案中。心にも、筋トレが必要なのだろうか。
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メイドインアビスと体に開いた穴のこと



アマゾンプライムにて、「メイドインアビス」1~13話を一気視聴。


デビルマン、エヴァンゲリオンやベルセルク、または冨樫義博作品が切り開いたのは、残酷な世界だった。日常生活ではとても体験できないような、過酷な運命が、少年たちを襲う。勧善懲悪的な、めでたしめでたしのない、腕がもげ、精神が崩壊し、目がくりぬかれ、それでも生き抜かなければいけない世界である。それはある意味では、本来残酷さに満ちている世界の中で、例外的な平和を享受している日本のアンチテーゼであり、逆説的なエンターテイメントでもあった。その系譜として、魔法少女まどか☆マギカという作品があった。コマとして消費されがちな少年よりも、少女という入れ物に分があったのだ。残酷なのは、我々の興味である。インフレーションは止まらない。メイドインアビスでは、魔法少女たちよりも、ずっと幼い12歳の少女が、どこから現れたのか不明な少年風のロボットと、過酷な旅に出る。

少女たちが暮らす世界の真ん中には、巨大な穴が開いていて、そこの住民たちは、穴の中に入って、宝物(遺物と呼ばれる)を手に戻ってきて、という生活をしている。そのあり方は、トルネコであり、ダンジョン飯であり、一方で、自然の描き方はジブリ的である。しかし、その穴から戻ろうとすると、人間の体にダメージが与えられる。RPG同様、深度が増せば増すだけ、リスクが増す。序盤では、吐き気や頭痛といった高山病程度のものだが、さらに深みまで潜って戻ろうとすると、人間の体の穴という穴から出血したり、さらには、人間の形状を保てなくなったりもする。その穴をアビスといい、そのダメージのことをアビスの呪いという。この設定が、残酷性の担保である。

目、口、尿道、肛門。この物語では、体に開いている穴も重要なモチーフとして登場する。すべての人間がしているがしかし、物語では触れられないものの一つに、排泄というものがある。恐怖ゆえにおねしょをもらす。痛みのあまり失禁する少女というモチーフは、PTA的な目線に立てばトンでもないということになるだろうが、端的に言って、表現的な成熟の表れだろうとも思う。ここまでしなければ、感情を移入できなくなった現代の心性というのもあるだろう。

最終話(第13話)において、この世界の残酷さはある種の極点に達する。それでも彼女たちは前を向く。どれだけ残酷な世界であっても、好奇心は止められないのだ。          

人の話を聞けない人間は、何者にもなれない

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「人の話を聞けない人間は、何者にもなれない」
初対面の人にそう言われ、ぐぬぬ、となった。
「経験からしか物事の真実を引き出せないのであれば、80年の人生はただ80年の時間でしかない。しかし自分を捨て、他人の話を聞く。本を読む。そうすれば、人生は倍、何倍、何十倍にも広がっていく。まずは自分を捨てなければ」

たしかに、おっしゃるとおり。しかし、この、心に浮かんだ黒いモヤモヤはなんだろう? このとき私は、自分を否定された気分で一杯だった。

不思議なことに、人間は、自分の話をしているよりも、他人の話を聞いているほうが、強く自分を感じるものだ。自分が語る自分というのは、容易に捏造が可能である。自分で意図していなくても、勝手に改変してしまう。これこそが自我である。しかしながら、他人の語る話を聞く自分の感情は、(何処からか)勝手にわきあがってくる。捨てろ、と言われても、容易に捨てられない自分。これこそが、我執である。

たしかに、相手の意見を100%聞ければどんなにいいだろう? ただ、その場合、相手が間違っていた場合、あるいは悪しき人間だった場合、取り返しがつかなくなる危険性がある。ここは難しいところだ。

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、という言葉もある。

古くは、学ぶはまねぶだった。師匠のすることを真似ようとしても、どうしても真似られない部分が出てくる。それこそが、自分を知り、負け方を学ぶ契機だった。が、どこかの地点で、おそらくは個性という言葉の蔓延とともに、別にいいや。オレはオレで。ワタシはワタシで。という風潮になった。

どちらが正しいということではない。ただし、ジ・オンリーワンなんて、幻想に過ぎない。すべての言葉は、既製品である。言葉は、自分より前にあり、人間(我々)は、それを借り受けることでしか、生活をスタートできない。当然、それ以前からあるものと、そこに誕生したものが融合するのだから、衝突する。そのことを、葛藤と言う。

先日、心の筋トレという言葉を使ったが、葛藤こそが、それかもしれない。衝突し、悩み、受け入れ、前に進む。
「人の話を聞けない人間は、何者にもなれない」
はい。
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なぜ、ギャンブラーは差別されるのか?



網野善彦「日本の歴史をよみなおす/続日本の歴史をよみなおす」を読む。

かつて、さいころの目という神の意志を体言する芸能、博打道というものがあった。平安時代には、「双六別当」「巫女別当」というような役職が、加賀の国にあったことが確認されており、また、京都の朝廷の官庁にも、双六打ち、博打打ちや巫女を統括する役所があった、という。そう、博打打ちは、巫女と並んで、聖なる存在であり、また、公務員でもあった。

日本において、職業差別が表舞台に現れたのは、鎌倉から室町時代あたりらしい。それは明らかに、都市生活者による、大いなるもの、自然、神仏の軽視のマインドセットと符号している。

「あの人、変わってるな。おそらくは神様仏様の思し召し。ありがたやありがたや」というような畏敬の念から、「あいつ、変わってるな。きっしょ」という変遷なのだろう。
博打打ち、遊び人、という非生産的な人間は言わずもがな。ヤクザの語源は、8+9+3、オイチョカブにおけるブタ。差別は、見たくない現実、脆い部分を切り捨てようとする精神の運動なのだ。

この本を読んで気づいたことのひとつは、映画「もののけ姫」に出てくる登場人物は、ほとんどが差別されている人間ということだ。主人公アシタカとてそう。髻(束ねた髪)を切るのは、罪人の証。当時、ケガレは伝染すると考えられていた。大和(やまと)ではなく、蝦夷(えみし)の一族とはいえ、そのような風習は変わらず存在していたのだろう。だから一族の長になるはずの若者であっても、見送りが禁じられた。

おそらく、じご坊たち唐傘連は、乞食、非人を含む民衆を引き込み、踊りながら念仏を唱え、諸国を行脚した一遍(いっぺん)というお坊さんの流れをくむ集団であり、それゆえ疎んじられていただろうし、牛飼いは獣という野生と折衝するため穢れていると信じられており(髪を束ねることがゆるされなかった)、製鉄は山を汚し、じばしり、狩人はこれまた獣を追う仕事であり、ハンセン病患者は見た目、女は血が出るから穢れている、と。むちゃくちゃな理屈だが、差別は論理ではない。感情に訴えるのである。

生活環境は変わっても、人間は変わっていない。この国の歴史。いまなお刺激的な論考だった。もののけ姫を2倍楽しむ方法としても。
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『敗走日記』とは。

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スロット打ちは、可能性の話をしてはいけない。
「何の台打つん?」
「GODかな」
「何で?」
「GOD引けるかもしんないじゃんよ」
「せやな」
上記の会話は、スロット愛好家にとっては、当たり障りのない会話だが、スロットで生活している人がしてはいけない。1/8192の確率で引けるフラグがあるというのは事実。それを引ける可能性があるというのも事実。が、実際にそれを引けるかどうかは、運なのだ。希望的観測からは何も生まれない。



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作者 寿
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ふと思う。スロ歴ってどれくらいなんだろう? 今年で20年? そんな経つ? ピーいれたいね。スロットばっか打ってるわけじゃなくて、普段は小説書いてんすよ。ちっとも売れないけどね。つうか売ってないしね。けどこのブログだと読めんすよ。フォウ!

ブログポリシー「my rights sometimes samurai!」
当ブログは、寿という人でなしが小説を書くなかで、
また、スロットを打つなかで、
はみ出たものを一所懸命につづったものです。
基本的に毎日更新してはいますが、
毎朝グビグビ飲めるというほどあっさりした、
また、健康的な文章ではありません。
油ギトギトのラーメンというほどではないと思いますが、
胸焼け、食あたりを起こす可能性がある由、ご留意くださいますよう。

また、コメントは大歓迎です。
引用ももちろん大歓迎ですが、引用元の記事を明記していただけると幸いです。
それでは今日もはりきって行きましょう! どこへ? パチンコ屋へ。
1日1回のポチを。
血がたぎります。

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