波騒(なみざい)は世の常(つね)である。波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚(ざこ)は歌い、雑魚は躍る。けれど、誰か知ろう。百尺下の水の心を。水の深さを。
吉川英治 「宮本武蔵」より
午前11時のブンガク
季節はめぐる。輪廻する。春から夏へ。夏から秋へ。秋から冬へ。そして再び春がやってくる。しかしながら、人生は一方通行である。幼児から少年へ、少年から青年へ、青年から壮年へ、壮年から中年へ、老人へ、死へ。
ゴール!
先日、「千と千尋の神隠し」を見ていたところ、舞台である油屋(湯屋)の入り口に、「回春」と貼られていることに気がついた。
回春とは、春が再びめぐってくるということであり、それが転じて若返りという意味を持ち、現代では、性的なパフォーマンスが回復するという隠語である。ぼくの聞き及ぶ限り、人間というものは、死の間際まで、性欲はなくならない。そして体力の幹たる筋肉は、トレーニング(使うこと)によってのみ、鍛えられる。だから回春というのは、いささかファンタジックな表現だろうと考える。
ところで、先週のアメトーークで、絵本製作総指揮官の西野さんがこんなことを言っていた。「ドキドキしてるぅ?」と。
なぜ年齢を重ねた人間がドキドキしなくなるかといえば、ドキドキは疲れるからである。それは第一に体力の問題なのだ。新鮮味の欠如。これも大きい。目にするものが何でも新鮮な十代、自分の好きなものを知る二十代。が、三十代に突入して、なおも新鮮さを失わないことは難しい。
しかし今、30代後半の主人公の、右のポケットには50万、左のポケットには50万が入っている。ポケットを叩くと♪ そんな歌を口ずさみたくなる気分だった。こんな単純なことでドキドキできるんだな、と思う。
主人公の心に浮かんでいたのは、幼い頃やったゲームだった。
「上、上、下、下、左、右、左、右、B、A」
グラディウスの無敵コマンド。
今、おれは、この時間からできるほとんどのことができる。車や土地を買うことは叶わなくとも、高級ソープに入れる。神戸牛、松坂牛、サーロイン、テンダーロイン、シャトーブリアン(テンダーロインの中央部)だって食べられる。ドン・ペリニヨン、ボルドーの5大シャトー、ルイ13世、ヘネシーリシャール等、分不相応な酒を飲むこともできる。おれは、自由だ。主人公は思う。過去なんて関係ない。年齢も関係ない。おれが今、何をするか? 選択することだけが、明日の自分を決めるのだ。ポケットの中の膨らみが彼の勇気だった。
地震、原発、火事、親父。
「トラウマなどない」と言い切ったアルフレッド・アドラーの言葉が現代人の心を刺激するのは、単一の事象に、自分の今の理由を求めることの無意味さを、現代人は嫌というほど味わったからではないか。過去に何があったにしろ、結局、人間は、今しか生きられないのだ。
主人公の目の前には、夜の街が広がっていた。心に広がる不安と期待。初めて海を目にする少年のような。
つづく