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「三代目坂田半五郎の藤川水右衛門」東洲斎写楽

やっちまった。


まただ。また、ヒューマンエラーだ。ミス、ミス、ケアレスミス。どうしておれってやつはいつもこうなんだ。バカが。阿呆が。痴呆が。外道が。嗚呼。


そういうとき、ぼくはこう考える。このことを文章にしよう、と。

スマートな人、何でも軽くこなす人、頭のいい人、強い人、そんな人が世界のどこかにはいるのかもしれない。でも、少なくとも、それはぼくではない。 

ぼくは超人ではなく、人間を書きたい。
人間の一面をクローズアップするのではなく、総体を、全体像を文章という人間存在の一面で捉えたい。


一面をクローズアップすることなく、総体を、全体を、一面で捉える?

表現矛盾なのはわかっている。


ぼくの目指しているのはたぶんこういうことだ。少し長いけど、引用させてください。


「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしてるとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない――誰もって大人はだよ――僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ――つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっからか、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げてることは知ってるけどさ」


ライ麦畑でつかまえて J.D.サリンジャー 野崎孝訳より



他人を前にして、飾ることはできる。服装で、言葉で、お金で、経歴で、資格で。

けれど自分。自分自身を欺くことは誰にもできない。だってぼくは、今まで自分のついてきた嘘も弱みも、全部知っている。自分が馬鹿なことなんて、百も承知なんだ。そこから目を逸らすのは自分自身に対する裏切りじゃないか。


でも、考え方次第で世界は変わる。


小さいことでいいと思う。

たとえば、負けた日はうまい酒を飲みに行こうとか。

やった、今日は負けた。これで、飲める、となれば、その負けは勝ちみたいなものだ(飲みすぎには注意)。


太宰治の「斜陽」の主人公、かず子はこう云う。


「私は確信したい。人間は恋と革命のために生まれてきたのだ」と。
 

恋はひとりではできない。でも、革命ならできるはず。

転ぶ。立ち上がる。転ぶ。立ち上がる。それが人生だと思う。


 

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