IMG_1996
「カード遊びをする人々」ポール・セザンヌ


博才、博打の才能について、浅田次郎は「カッシーノ!」という諸国漫遊カジノエッセイでこう語っている。


”博才とは何か。まず第一に挙げられるのは、金勘定ができるか否か、であろう。いわゆる金銭管理能力というものは天賦のもので、日ごろ他人からセコいと陰口を叩かれるぐらいでなければ、バクチを打つ資格はない。大人の金勘定というのは掛け算のことで、足し算と引き算がいくら達者でも金は残らない。金銭感覚の中にこの「掛け算」のソフトがあるかないかは天性に拠る。


博才の第二は基本的性格である。バクチで身上を潰すタイプは、熱しやすく冷めやすいマッチポンプ型と決まっている。才能ある者はことさらブラフをかます必要もない先天的ブラフマンである。


博才の第三は生まれ持った運の太さ。何をやってもダメなクスブリ男は論外だが、順風満帆型よりも波乱万丈型にこの強運の持ち主は多い。”

と。

しかし待てよ、とぼくは思う。

博打の才能のない人間は、眺めるか、あるいは、負ける、その二択しかないのだろうか。

博打の才能が天与のものなら、話はそこで終わりである。


そもそも才能とは何だろうか。


よく言われるのは天才と秀才である。


思うに、天才とは切符なしで目的地に着いてしまう超能力者のことで、秀才とは線路を引いて、電車をつくり、自ら運転し、目的地に着くことのできる優秀な能力のことだ。


いずれにしても、ぼくには縁のない能力であり、その能力を欲しても、得られるものではない。


ぼくは自分がどこに行けばいいか、また、どういう移動手段があるのか、さっぱりわからない状態にあった。


これでは勝負になりっこない。


勝負にならないけれど、それでもその勝負をしなければいけないとき、ぼくたちはどうすればいいのだろう?


ひとつは、学ぶ、という方法である。


ひとつは、あきらめる、という方法である。


ひとつは、違う道を進む、という方法である。


その点において、我々はまったくの自由なのだ。



が、本当にその道を進んでいいのか? 
 

浅田次郎は言っている。博打の才能の第一は天賦、第二は基本的性格、第三は生まれ持った運。であると。


その言によれば、すべては生まれる前から決まっていることなのだ。


そして、ギャンブラーはギャンブルをする限り、胴元には絶対に勝てないということも、決まっている。


オーシャンズイレブンのような仲間でもいない限り。が、あれはギャンブルではなく、犯罪である。


それでもあきらめきれぬもの、あらがうものは、進めばいい。

しかし、その道を進む限り、誰にも文句は言えない。


それが自由の代償である。


ゲーテは言っている。

「我々のする事柄は、なんでもかんでも全部徒労である。疲れぬ者に幸いあれ!」   

と。
 

そのゲーテだって、どう考えても天才なのだけど。

が、天才だろうが秀才だろうが凡人だろうが、最後は等しく死んでいくのである。

茨の道を行く者に幸いあれ! 
 


にほんブログ村 スロットブログへ banner
人気ブログランキングへ