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「カラスのいる麦畑」フィンセント・ファン・ゴッホ
 

マーク・トウェインは天国にユーモアはない、と言った。その源泉は喜びではなく、悲しみである、と。
 

カート・ヴォネガットは死の臭いのしないジョークは面白くない、というようなことを言っている。


確かにユーモアは、天国とは遠く隔たった場所からやってくる何かに思える。それは惨めな境遇を笑い飛ばす手段であり、辛苦から逃避する一助である。


だって人間だもの。




オクタビオ・パスというメキシコの文学者は、ユーモアとは近代精神の発明である、と言う。


それを受けたミラン・クンデラはこう言う。


これはきわめて重要な考えだと言うべきであって、ユーモアは人間の大昔からの慣行ではなく、小説の誕生と結びついている発明なのである。したがってユーモアとは、哄笑、嘲笑、風刺などではなく、ある特殊な種類のおかしさなのだ。


オクタビオ・パスはユーモアを次のように説明する。


それが触れるいっさいのものを多義的にしてしまう、と。
 


ぼくが人生で辛かったときのことを考えてみる。


初代北斗の拳の推定設定六で十二万負けたことは、今となってはいい思い出だし、秘宝伝太陽の全六イベントでこれまた六千枚吸い込まれたことも、今となってはいい思い出である。

初めてのカジノで有り金がなくなったことも同様に。


これらは要するに、なくなったものがお金だからなのだ。


フられて元気になったことは一度もないし、友人と仲違いしてハッピーになったこともない。


祖母や愛猫、愛犬が死んだときは、悲嘆に暮れた、それが尾を引いた。


このあたりで誰も笑わなくなる。 


金にまつわる不幸は笑える。
自分のことであっても過去なら笑える(今なら笑えない)。


恋愛にまつわる不幸はまあ笑える。 

自分のことでも過去になっているなら、まあ笑える(今だったらもちろん笑えない)。
 

肉親や家族にまつわる不幸は笑えない。
過去のものであっても笑えない。
他者のものでも笑えない。

このあたりに人間存在の鍵があるような気がしている。 

 

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