今は昔、日本一周苦行の旅の途中。
整備不良で点数を取られた後(ぼくにとっては青天の霹靂だった)、若き警察官はこう言った。
「でも、いいなあ。僕もそういう自分探しみたいなことをしてみたいよ」と。
ぼくは死んだ魚のような目つきで彼を見て、「そうですか」と言った。
ぼくが日本一周をそのような、途方もない苦行のような形で行ったのは、色々なものが許せなかったからであり、何より自分を許せなかったからだ。パチンコ屋にはトイレを借りる以外で入っていないし、観光もほぼしていない。食事も一日一食と決めていた。日本一周という目標を選んだのは、それが実現可能で、なおかつ手間がかかるからだ。
家の中でうじうじ考えをめぐらせるわけにはいかなかった。
ぼくにはある程度の時間が必要だったし、通常ならしたくない、しかし、しなければいけないこと(手間)が必要だった。
ぼくは断じて自分探しなんてしていない。だが、それを彼に言う必要もないだろうと思った。
自分探しをしてみたいと言った彼にあるのは、ここではないどこかに行ってみたいという現実逃避の願望だけだろう。
本当にそれがしたいならすればいい。ただそれだけのことである。
自分なんて何をしたってすぐに見つかる。見つからないふりをしているのは、それを見たくないからである。
自分を飾ることなんてたやすい。
服装で飾る。
喋り方で飾る。
態度で飾る。
ウソで飾る。
小道具で飾る。
色々方法はある。
が、自分に何かを加えていって自分が見つかるはずがない。
一番簡単な自分探しがある。
「ギャンブル」である。
追い込まれて出てくるもの。それが本当の自分である。
ぼくは追い込まれると、とたんに悲観的になったり、わけのわからない希望的観測にすがったり、あるいは狂ったように打ち散らかしてしまう。
そんな弱い自分など誰も見たくない。でも、それが自分の姿だ。
それを受け入れるのはきつい。
それでも受け入れる他ない。
どんなに嫌でも、どんなに目を背けたくても、それがリアルな自分の姿なのだから。
ただし、救いもある。
サッカーの本田圭佑選手が、とある学校で公演をした際、学生にこんなことを聞かれていた。
「強さとは何ですか?」
本田圭佑選手は「深いなあ」とひとしきり悩んだ後、「自分に打ち克つこと」と答えていた。
そう、弱いのが嫌なら強くなればいいのだ。
強さとは誰かと比べて何かを競うことではない。あくまで自分との、弱い自分との競争なのである。
が、強くなれそうもないぼくは、弱々しい自分のままで、できることを探っている。
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