言語では現在を捉えられないという根本的な問題がある。
言語は常に遅れるものだからだ。


時間こそが時代の尖端である。しかし時間は流れ続ける。なうと言っている間に時間はもう進んでいる。止めることも切り取ることもできない。


だから時代の尖端などという表現は幻想なのである。


その幻想をぼくの言葉が追いかける。
これは完全に、お釈迦様の掌の上でもがく孫悟空状態だ。わかっている。

どこまで行っても目的地にはたどり着かない。たどり着かないがしかし、やらずにはいられない。


人間がものを表現するとはそういうことではないか。



流行という現象がある。その現象もまた、尖端のもたらしたひとつの影であるとぼくは思う。


もう去年のことになってしまうが、「恋するフォーチュンクッキー」という曲があった。


ぼくは今までも、そしてたぶんこれからも、アイドルグループというものの熱心なファンではない。


けれどもAKB48という極めて認知度の高いアイドルグループが、パチンコやスロットのモチーフになるという時代であるからして、アイドルという本来超越者であるべき人物、またはグループが、我々にとって身近な存在である、というのはわかる。


とはいえ、この曲を歌う大勢の女性たちの中の主人公は「指原莉乃」なのだ。


彼女のことを悪く言うつもりは毛頭ないけれど、百人が見て百人が呼吸を忘れて見とれてしまうほどの絶世の美女とは言いがたい。そして、誰が見てもこの人は好人物である、という言動をしているわけでもない。グラマラスとも言いがたい。……ですよね?


それは言い換えれば、清濁併せ持つ普通の人間の、大多数の人間の性質ではないか。


しかし、その痛いとも形容される一般的なパーソナリティが、経済効果という現代の神を動かし、これ以上ない地位まで上り詰めた。これが事件でなくて何が事件だろう。


十五万枚のCDが、彼女という名前の下に購入されたのだ。

一枚千六百円として、二億四千万円。これはもう、普通の人物のはずがない。


そのあまりに挑発的なタイトルから、話題になった(というか侃侃諤諤の議論を巻き起こした)濱野智史の「前田敦子はキリストを超えた」という新書があるが、その文脈でいくと、指原莉乃はさしずめアンチクライストか。

が、この現象を、大仰な言葉や耳障りの良い言葉、意味の判然としないカタカナ語や挑発的な語句といったフィルターを通して語ることはぼくにはできない。


等身大の人物が、背伸びすることなく、時代と同期する。彼女の体現しているものは何なのだろう?



正直な話をする。


KBという現象にも、アイドルという文化にも、はまれそうにない。

でも、それを一刀両断、「興味ねえ」で終わらすわけにはいかないと思う。


結論はない。


残念だとは思う。ぼくの力不足もあるけれど、尖端を論ずるところ、結論はない。


というか、結論など出せないのだ。

あるのは現在、それだけである。過去も未来もない、目の前に広がる今があるだけだ。


何にせよ、少女たちが指し示す物事のあるべき姿、我々はその新たな時代を生きている。


新しいものの登場に何となく嫌悪感が生まれるのは、生物が保守的であることの証明である。


古きものを悪しきものと蔑む若者の習性も、裏返しの保守である。


スロッティアンは、保守的であれ革新的であれ、その人の習性がどうであれ、現在を優先させなければいけない宿命がある。

目の前の状況に適応せずして勝利を得ることはできない。


みなし機撤去に泣いた日も、設定六でぼろ負けしたいくつの夜も、辛勝の日の美酒の味も、常連同士の小競り合いも、あまたの記憶を抱きしめて、ぼくがしなくてはいけないことはただひとつ。


断定せずにしかし決断する。それだけである。


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P.S.アイドルグループに精通していない人間が思いつきでこんな記事を書いてすいません。不快に思う方がおられたら遠慮なくおっしゃってください。 寿