高校の頃、担任の教師に「学校辞めて毎日何をするんだ?」と聞かれた。


「スロット、かなあ」


「スロット、かあ。おれもたまにパチンコ屋行くけど、あれ、勝てるのか?」


「勝つる!」とぼくは高々と宣言した。18歳の秋のことである。



当時はまだ二十世紀であり、スロットのほとんどはAタイプだった。CT機能が搭載されているもの、集中機能が搭載されているもの、七ライン機、500~600枚程度のボーナスを備えた大量獲得機はあったが、裏モノとオフィシャルには歴然たる出玉性能の違いがあった。


折りしもCRのパチンコに規制が入り、確率変動システムには上限が設けられ、5連チャン打ち切りという残虐なシステムで暗黒面に堕ち、少なくない数のパチンコ難民がパチスロになだれ込んでくる時代でもあった。



隔世の感がある。


結局、担任の先生の真摯な説得のおかげで高校を辞めることはなかったのだが、それはともかく、当時も今も、スロットを打つということがぼくの中の日常的な非日常、すなわち祝祭的な行為であることは変わらない。


尋常ではない騒音の中、決して座り心地の良いとはいえない椅子に座り、コインサンドにお金を入れる。コインがジャラジャラ落ちてくる。台にズバズバコインを投入する。レバーをトンと叩く。リールをトントントンと止める。


ぼくはその祝祭的、言い換えるなら宗教的な一連の儀式のくりかえしに身を預け、神託を受ける。


その結果が勝ったり負けたりの勝敗である。


当然、職業(自称芸術家)がスロットを打つということは、趣味ではありえない。MBが落ちていたら甘んじて拾うし、設定を期待できる状況ではそれを狙うし、期待値稼働だってする。けれど勝利というものはそれがどれだけ数学的な後押しを受けていたとしても、祝福であることには変わらない。


とはいえ、何かが好きだ、という気持ちは、根本的には病的なものだろうと考える。

あるいは中毒症状である。


好きというのは満ち足りていない状態であり、充分ではないから欲するのだ。

満ち足りていて、充分であり、なおかつ好きなものがあるとしたら、それは好きではなく、愛だ。
愛。

愛……

ぼくのキャパシティを完全に超えた領域の言葉である。


愛に至れない我々のような人間にとって、射幸心を煽らない遊戯にいったい何の面白みがあるだろう?


パチンコ屋が非難の対象であることはわかる。公序良俗を乱す存在であることも重々わかっている。


けれど、社会的弱者の、あるいは引きこもりの、日陰者の、数少ない生息スペースであることも事実だと思う。


何を隠そう、相手は機械なのだ(怖くない)。


店員と喋る必要もない。すべてはジェスチュア(たとえば人差し指を交差させる。ヤメルのサイン)と、上下左右の首の振りだけでコミュニケーションが完結するのだ(怖くない)。


すべてが日の光の下で生きていけるわけじゃない。


そもそも哺乳類は地上に跋扈する大型爬虫類たちのニッチに潜り込み、いじめっ子たちの手の届かない小さな夜の世界を生活基盤にすることから今の繁栄のキャリアをスタートさせた。




ぼくは自分が嫌になるくらい弱い人間であることを知っている。

できるだけ現象を客観的に見つめたい。ぼくのためではなく、誰かのためでもなく、小説のために。

それがぼくのため、誰かのためにつながることを願う。



そう。今回は完全に自己弁護です。笑


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