昨日は大岡昇平の漱石ディスを紹介したが、今日は、戦争文学のスペシャリストにリスペクトを表したい。ということで、大岡昇平の代表作、「野火」の書き出しを、見てみよう。
私は頬を打たれた。分隊長は早口に、ほぼ次のようにいった。
「馬鹿やろ。帰れっていわれて、黙って帰って来るやつがあるか。帰るところがありませんって、がんばるんだよ。そうすりゃ病院でもなんとかしてくれるんだ。中隊にゃお前みてえな肺病やみを、飼っとく余裕はねえ。見ろ、兵隊はあらかた、食糧収集に出動している。味方は苦戦だ。役に立たねえ兵隊を、飼っとく余裕はねえ。病院へ帰れ。入れてくれなかったら、幾日でも坐り込むんだよ。まさかほっときもしねえだろう。どうでも入れてくんなかったら――死ぬんだよ。手榴弾は無駄に受領してるんじゃねえぞ。それが今じゃお前のたった一つの御奉公だ」
私は喋るにつれて濡れて来る相手の唇を見続けた。致命的な宣告を受けるのは私であるのに、何故彼がこれほど激昂しなければならないかは不明であるが、多分声を高めると共に、感情をつのらせる軍人の習性によるものであろう。情況が悪化して以来、彼等が軍人のマスクの下に隠さねばならなかった不安は、我々兵士に向って爆発するのが常であった。この時わが分隊長が専ら食糧を語ったのは、無論これが彼の最大の不安だったからであろう。
なぜ、この主人公は、戦場にいながらにして、こんな視点を持てるのだろうか? 読者は、胸のうちで突っ込まざるをえない。「おまえも兵隊だろうが」と。
そう、当時はまだ、標準語(日常会話)として定着はしていなかったが、これはボケである。お笑いの、あるいはボケとツッコミの構造について、明石家さんまは「緊張と緩和」というような言葉で説明しているが、ボケとは、ある種の緊張状態を引き起こす言葉である。先日触れたように、「誰やねんおまえ」というのが、読者の基本姿勢であるとして、ボケはその有効な回答である。プレゼンテーションとしても。
ただし、当の主人公は、命賭けである。この主人公は血を吐いてしまうくらいのフィジカルコンディションであり、戦闘は難しい。がゆえに、(野戦)病院に向かう。しかして入院し、3日後、治ったから隊に戻りなさい、と言われるも、隊に戻ると、治ってないじゃないか、5日分の食糧をもらったのだから、後2日は戻ってくるな、と言われる。くりかえすが、これは、戦争のさなかのできごとである。まこと、末期的状況なのだ。
末期的状況といえば、パチ屋である。お笑いにおけるツカミと小説の書き出しの符号について、語り足りない気持ちもあるが、(強引に)稼動に行かう。どこへ? 戦場へ。
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