「エミール・ゾラ」エドゥアール・マネ
最初に結論を書いておく。ならない。可能性はあるかもしれない。しかし少ない。
何せ前例がない。ぼくの知る限り、スロットが前面に出た小説はハセベバクシンオーの「ビッグボーナス」ただ一冊。
その本にしても、スロットを打つ人間の物語というよりは、ありもしない攻略法を売りつける詐欺の話である。
なぜだ?
スロットが社会に認知されづらい存在だからか?
ただし、ケツメイシのRYOは初代北斗を打つ日常をつづった書籍「涙でリールが見えない」を出しており、元シーモネーターことSEAMOは番長を歌詞に取り入れてみたり、初代北斗をモチーフにした楽曲をつくっており、パチorスロ番組を持つ芸人しかり、芸能界には隠れスロッターがたくさんいそうである。
だいぶ昔の話だけど、テレビでサッカー元日本代表フォワードの高原が休日はスロットを打つみたいなことを言っているのを見たことがある。
しかし文学の世界にはそういう人が全然いない。
ぼくの覚えている範囲では、唯一、芥川賞作家の金原ひとみが技術介入時代のスロットをけっこうな頻度で打っていたらしく、そのことを知ったアニかつ氏がパチスロ必勝ガイドで対談したくらいか。
なぜスロットが物語になりづらいかといえば、第一に、ドラマティックすぎるという点にあると思う。
別の言葉でいえば、自己完結的すぎるのだ。
国籍性別問わず、どこの誰でもいい、十八歳以上の見かけさえあれば(あるいは証明するものがあれば)、そしてお金という入場券さえ持っていれば、そのドラマに参加することができる。
そして、パチンコ屋の中にあるどんな台に座っても、そこそこのドラマを味わうことができる。
しかしそのドラマは他人にとって、実にどうでもいいドラマなのだ。
そのあたりを鑑みて、参考になる例が、スロットではなく、パチンコにある。
1994年のヒットソング「PACHINKOMAN」である。
歌っているのはBOGGIE
MAN。世間的に見れば一発屋といっていいだろうが、しかしこの曲は、当時中学生だったぼくですら口ずさむくらいの一般的な知名度があった。
この楽曲を一言であらわす言葉があるとすれば、悲哀だろう。その悲哀がキャッチーな音楽とあいまって、大衆の心を掴んだのだ。たぶん。
悲哀。それは物語の主題であり、音楽の主題であり、絵画の主題であり、ありとあらゆる芸術の主題である。
そう、軸が悲哀であるならば、パチンコであってもスロットであっても物語たりうる。
前言撤回。ぼくが世界を変える。スロットは文学になる。
しかし、具体案はまだない。
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