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文学は、セーフティネットである。

極論を言えば、傷付いていない人に文学は刺さらない。

いや、むしろ、「朝目覚めると、毒虫になっていた」という物語を読んで、人間が虫になるわけねーじゃん。おつ。という感想を持つのが普通なのかもしれない。

現実には、そのような人はたくさんいるはずなのに、会社が倒産する人を見ても、なかなか自分のことのようには感じない。

オレの会社が倒産するわけねーし。

オレがクビになるわけねーし。

オレたちの関係が変わるわけねーし。

オレ元気だし。

オレ死なねえし。

と思うのが、普通なのかもしれない。

が、不幸はオレには当たらないと思うのは自由かもしれないが、不幸に当たる可能性があるのも人生であって、だからこそ、虚構の(自分の都合のよくない)世界に入って、浸って、出る。という行為にある種のデトックス(解毒)効果が生まれる。

毒虫ザムザの世界を描いたフランツ・カフカは、友人にあてた手紙の中でこんなことを書いている。

僕たちの読んでいる本が、頭蓋のてっぺんに拳の一撃を加えて僕たちを目覚めさせることがないとしたら、それではなんのために僕たちは本を読むのか? 君の書いているように、僕たちを幸福にするためにか? いやはや、本がなかったら、僕たちはかえってそれこそ幸福になるのではないか、そして僕たちを幸福にするような本は、いざとなれば自分で書けるのではないか。しかし僕たちが必要とするのは、僕たちをひどく痛めつける不幸のように、僕たちが自分よりも愛していた人の死のように、すべての人間から引き離されて森のなかに追放されたときのように、そして自殺のように、僕たちに作用するような本である。本は、僕たちの内部の凍結した海を砕く斧でなければならない。そう僕は思う。

わかっているのは、今の「環境」が永続するという決まりはどこにもないということ。我々は、そんな不確定な未来を共有していること。

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