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今日は、「自己責任」という言葉は無責任極まりないということを書きたい。少々重い話になりそうですが、とても大事なことなので、書かせてください。

まず、「責任」は、日本語が語源の言葉ではない。にもかかわらず、翻訳をしたときに「責」という漢字をあてたものだから、人を責める言葉みたいに機能しているのが現状だと思う。これこそが、言語の持つ「呪い」そのものだと思うが、他人に使うべきではない言葉を他人に使うというのは、ナイフの切っ先を相手に向けてナイフを渡すようなものだ。危険極まりないからやめようよ、と割と本気で真面目にそう思う。

よく使われる言い回しのひとつに、「投資は自己責任」というのがあるが、すべての投資家が、「よし、これから先起こることのすべては自分に責任があるんだぞ」なんて思って投資するだろうか。いや、思わないはずだ。

というか、そういう風に思えない人から退場していくのが現実なのだ。どうして思えないかというと、誰も「責」なんか負いたくないからだ。

自分は負いたくないが、他人には負わせられる。これが人間の初期設定の感情で、だからこそ、負ける人は負け続ける。勝ったときは自分のおかげ。負けるときはいつも誰かのせいなのだから、同じことを無限にくりかえす以外ないのである。

そうならないためには、他人の「責」を求める前に、自分の人生に対するResponsibilityについて考えねばなるまい。

人生最大のレスポンスは、生まれたことに対する「反応」だと思う。この「生」を賜った理由は皆目見当つかないが、この生を賜った事実は間違いようがない。この生は、自分だけが味わうことのできる自分だけの贈物。だからこそ、人生にはResponsibilityが生じる。ぼくの人生は、自由で、だからこそのResponsibility。

ただの作用、反作用である。

いうなれば、Responsibility(責任)は、メールの返信に「Re:」を書くくらいのもの。昨今ではメールを使うことが激減してしまったが、今であれば、ラインの返信にスタンプを使うくらいのものだ。(既読/未読)無視をせず、何らかのレスポンスを返す。

別に「責任」というほど重い感覚である必要はない。

小説家も、投資家も、ギャンブラーも、いや、人生そのものは、返ってくるあてのない手紙を出し続けるような果て無き営みである。そのすべてに自分で署名し、Re:をつける。Responsibilityはただの感謝の気持ち。自分がもらった。だから、何かを返す。

「責」から始まるわけではない。「責」から発生する関係性は、重い。しんどい。続かない。

大切なのは他人じゃなくて、自分。誰かを責めたり、誰かに強要するものではない。自分がもらって嬉しかったから、誰かに何かを返す。確率の少ないこと=有難いことが起きたから、ありがとう。これがコミュニケーションの初手ではないか。

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