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おそらく、エモいという感情は、現象の中に過去を見ている。夢を語る人は、それとは反対の未来を見ている。田園風景を見てわきあがる郷愁は過去に属し、都市部の摩天楼に対する恍惚は未来に属している。

戻れない過去と、届かない未来。人間はどうしても、その両極をフラフラ行き来する生き物のようである。というわけで、去年あたりから、瞑想という習慣を取り入れることにした。瞑想、マインドフルネスと色々とスタイルはあるらしいが、要は心を飛ばさず「今、ここ」にとどめるということだろう。無、と言う。無我とも言う。今、ここ、という地点には、エモいもシコいも意識の高い低いもない。自分と他人の違いもない。今、ここ。どこにもいかないし、いく必要がない。今、ここ。

どうして、性的な高まりのことを「いく」というのだろう? そういえば、英語では「来る」と言う。ぼくたちの言語体系におけるあの世は此岸から彼岸に行くイメージで、キリスト教圏においては向こうからこちらに迎えに来てくれるイメージなのだろうか。おいおい。今、ここ。ああ、腹減ったな。今、ここ。今日は何をする日だっけ? 今、ここ。

こうやって目を閉じてじっとしていると、自分がどれだけお喋りかがわかる。ひとりで目を瞑っているだけで、これだけの雑念がわいてくるのだから。その都度、今、ここ、と目線を戻す。ああ、ぼくはこうやって、親や、大人たちに迷惑をかけてきたのだろう。そういえば、通知表にも「落ち着きがない」と書かれていた。心は叫びたがっているのだ。ここではないどこかを求めて。しかし心はあっちゃこっちゃに飛んだとしても、肉体は、今、ここでしか活動ができない。

10分のタイマーが鳴る。目を開け、立ち上がる。今日も一日頑張ろう。
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