鰻 あとがき
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お久しぶりぶりです。寿です。まずは近況報告を。このブログを始めて以来、何度目かわからない原因不明の体調悪化イベが発生し、初診になる病院にて数日にわたる検査を行ってまいりました。結果、異常なし。

「とりま、ストレスとの戦いです」ということを言われました。

症状としては、動悸息切れが続く、心臓が謎挙動を起こすというもので、しかし今回の数種類の検査の結果を見る限りにおいては、肉体的な不調ではない確率が高いとのことでした。ぼくはやや中途半端ではあるものの、楽観寄りの人間なので、そう言われると、症状はピタリとは言わないまでも、ある程度収まってしまう。そうか、そんなもんか、と。

さて、スロ小説「鰻」ですが、師匠の一人称が「俺」になっているときがありましたね。以前コメント欄に書いたような気がするのですが、師匠は自分のことを「僕」として認識、思考(モノローグ)し、人と喋るとき(ダイアローグ)にだけ「俺」を使います。たぶん師匠は「俺」感が好きではなく、できれば「僕」でいたいのだけど、誰かの前では「俺」を使わざるを得ないという葛藤があって、なぜなら、僕という単語には「しもべ」という意味があって、へりくだりの意味合いが強い。そもそも師匠は敬語も好きではなく、家族にしろ学校にしろ集団というものがどうしても好きになれない。人間が集まるところ、必ず序列が生まれ、子供として生まれてくる以上、誰かの下、誰かのルールの下で生きなければいけない。しかしながら、そのような中二病的な精神を保ったまま他人と折り合って生きることは難しく、しかし他方では、僕という言葉の響きだったり、文学性だったり、師匠の感性が「僕」を求めているのも事実。僕でいたい。他人の「しもべ」にはなりたくない。国語教師の息子というカルマでしょうか。人間の心は難しいものですね。師匠は鰻の白焼きを食べた後で、どこに向かうのでしょうか。

ざっくりとした構想では、「牙折れ」(タイトルに再考の余地あり)という、牙くんが暗黒面に堕ちるのかそれとも立ち上がるのかという展開、それから、りんぼさんの逃亡記というか、激動の時代をどう生き抜いたかという証言と告白があって、そんなりんぼさんのモチーフは、エヴァ「破」のオープニングシーンで、エヴァ仮設五号機が第三使徒と戦っている暗い地下坑道のようなところ。リンボーエリアと言いまして、Limboすなわち、「辺獄」です。

「辺獄」に似た場所に「煉獄」や「地獄」というのがありますが、煉獄は英語でPurgatoryパガトリー、カトリックにおけるこの世とあの世の中間地点であり、天国に向かう人が、清めの期間を過ごす場所。宮崎駿「風立ちぬ」のラストシーンで菜穂子さんとカプローニさんがいるところ、あそこが煉獄です。対して「辺獄」は、これまたカトリックの概念なんですが、キリスト教の洗礼を受けておらず、地獄にも行けず、天国にも行けない人たちが集まるところで、イエス・キリストも、死後復活の時まではここにいたとされています。これが転じて、現代では、宙ぶらりん、まだ何も確定していないという意味の慣用句にもなっています。タイトルはずばり「辺獄記」、そんなりんぼさんの物語を書こうと思っていたのですが、少々というかかなり生臭い話になってしまうため、おそらくブログでは書けないでしょう。自費出版しかないか。

……いやでも、そうか。たけさんの言う「最後の晩餐」を白焼きでキメた後、師匠は辺獄に向かうのか。おお。自分で書きながらワクワクとゾワゾワが同時に来た。ゾクゾク。そうか。そういう風につながるのか。

というわけで、日の目を浴びるかどうかはわかりませんが、スロ小説は続きます。願わくば、みなさまのもとにお届けできる日が来ますように。と祈りつつ、寿は冬眠に入ろうと思います(撤去まで沖ドキ島の島民になりたい)。今回もご精読ありがとうございました。

書くこと、賭けること 寿
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