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ご心配おかけしました。体調は、一週間でおおむね復調し申した。膝も2日静養していたら、ようなり申した。

こうなると調子に乗りだすのが、ダメ人間という初期設定。どうしてこんな設定で生まれたんだろうということを嘆いたところで意味がない。

ぼくが個人的に、この世界をダメにしていると感じるものの一つに、「陰謀論」なる論でもなんでもないヨタがあるが、阿呆やなあ、と思いつつも、どうして人が陰謀論になびいてしまうかというと、その人が阿呆だからでは決してなくて、そこに筋道というか、理路が見えーる。その筋道、理路を見抜くことのできる目の確かさがあーる。ソウ、ワレハ、カシコイ、ダカラ、アノモノタチノ、陰謀ヲ、シッテイルと感じてしまうストーリーだから、陰謀論はタチが悪いのである。

人の脳は、阿呆、ただの阿呆を見ると、そこに阿呆以上のものを見出そうとする賢い習性があり、何となれば、ははーん、さては、と悪意を感じるものであり、このことを、ハンロンの剃刀という。らしい。

ハンロンの剃刀


そんな阿呆なことがあるわけがない。そんな阿呆なもんが、阿呆、ひとことで済ませられるわけがない。何か目的のようなもの、隠れたストーリー、そう、陰謀がなきゃおかしい、と。


風が吹けば桶屋が儲かる、ということわざは、ざっと以下のような物語である。

1、風が吹く

2、風が吹くと土埃がたって、盲人が増える

3、盲人は三味線をひくから、三味線をつくるのに必要な猫の皮の需要が高まり、猫が減る

4、猫が減れば、鼠が増える。鼠が増えれば、そこらじゅうの桶をかじりまくり、桶が不足する

5、桶屋が儲かる

正味の話、2の時点で物語の論理は破綻しているのだが、その破綻した論理で突っ走っているところにドライヴ感があり、なるほど、とうなずいてしまいそうになるが、こんなもんが期待値であってたまるかーである。

風という自然現象を見て、「風立ちぬ。いざ生きやも」(風が吹いた。生きようと試みなければならない)という人がいたり、「風が吹けば、桶屋が儲かる」という人もいるのが、人類の面白さなのかもしれないが。

ともあれ、詐欺のほとんどは、このむちゃくちゃなストーリーを信じ込ませる/信じてしまうという技法、詐術であり、たとえば、世界中、すべての国に、自分の国は素晴らしい、ということをアッピールするナショナリストがおられるが、よくよくそのアッピールを聞いてみると、素晴らしさの根拠、根底にあるのは、自分がそこに生まれたというだけなのだ。どんな国にも、美点と汚点があり、美点だけ挙げていけば、いい国になるだろうし、汚点だけを挙げていけば、そりゃ悪い国にもなるだろう。単純な足し算引き算の問題に過ぎない。

ぼくが個人的に内心ひっそり私淑しているムーミン谷のスナフキン先輩は言う。
「おまえさん、あんまりおまえさんがだれかを崇拝したら、ほんとの自由はえられないんだぜ」

詐欺師の特徴は、常に詐欺師の利益につながるようなことを言うが、多くの映画で採用されているように、私/俺を信じて、という台詞はフラグになりやすい。

陰謀論にしろ、何にしろ、信じることは、リスクとリターンがあり、信じることによって生じる(かもしれない)リターンと、信じ切ることによって生じる(かもしれない)リスクについて、どこまで考えてそのギャンブルを打つかが問題なのだ。

おそらく、ブンガクや小説と、陰謀論の違いはそこにあるのだと思う。物語は、ある種の因果律、原因があって、結果があるという一連の流れである。陰謀論は、あなたの不都合には何か理由があること、悪い奴、共通の敵がいることを声高に語るが、ブンガクは、不都合や不条理は、理由もなく襲ってくることをただ語る。今回のコロナ禍と、エヴァの使徒のありようが酷似しているのは、そういうことなのだと思う。

陰謀論は、あなたは一人ではない、という偽りの希望を与えようとする。ブンガクは、私は一人きりである、という絶望をつまびらかにする。

どちらに希望があるといって、偽りの希望ほど、困ったときに頼りにならないものはない。あなたが一人では「ない」という言説には、では、どこに味方がいるのか? という疑問に答えてくれないうえに、明確に敵を規定してしまう。

幸運でイキッている人も、不幸をかこっている人も、私は一人きりで「ある」というのが、すべての人間に与えられた条件であれば、すべての人間は、自分と同じ生き物なのである。ぼくはそう思う。
Deuces!
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