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昨日書いた、失敗をできるときに、できるだけ失敗をしておこうについての付記。

5月末に始まった精神の不調の一番の原因は、どうやら「したいことをする」「したくないことはしない」という二大目標(あるいは思想)を追い続けた弊害ということなんだろうということに思い当たった。

今のこの生活には、偶然が入り込む隙間がほとんどないのだ。あそびのない空間は、どれだけ便利で、効率的で、必要十分な物資が用意されていても、飽きてしまうということもあるし、現実のほとんどが偶然によって規定されているにも関わらず、必然的なことしかしないという矛盾に心が耐えられないということでもある。

そして、ここが一番重要なことなのだが、「したいこと」というのが、いつもいつもそばにいてくれるわけではないことと、すべてを「したくない」日がやって来るということだ。

要は、「したいことをする」「したくないことはしない」の二つのコマンドでは足りないということなのだと思う。

世界はグラデーションでできている。「したい」と「したくない」の間には、「してもいいかな」「できればしたくないけどしょうがないか」という曖昧な領域が広がっていて、すべてを「したい」と「したくない」に分けてしまうと、この広大な領域が無駄になってしまう。

期待値的な正解として、「してもいいかな」「できればしたくないけど、しょうがないか」というのを取りこぼさないためには、「したい」の幅を広げ、「したくない」の幅を狭める、というものなのだろうけど、ぼくがこれまでしてきたのは、「したい」の幅を狭め、「したくない」の幅を広げるという行為に他ならず、見たい。聞きたい。歌いたい。というこの生活に、リタイヤはゆるされない。このままいくと、死体か遺体まっしぐらだよなあ。遺体ならまだいいというレベル。何とかしないと。

というところで、仰天の一曲を。



最後まで聴くと、新鮮な苛立ちに胸がかきむしられる。

自分が何かをしたいという思いの向こうには、それをさせない誰かがいる場合がある。

ぼくもこれまでに一度だけ、社会的な事件に巻き込まれたことがあって、それは、23歳の春のことで、ぼくは鹿児島空港から羽田空港に向かう飛行機を待っていた。しかし、なかなか搭乗案内が行われない。搭乗時刻を過ぎ、5分過ぎ、10分過ぎ、20分過ぎ、30分過ぎた。

ざわざわ。ざわざわ。

しびれを切らした一人のおじさんが、キャビンアテンダントの恰好をした女性従業員に詰め寄った。
「いつまでかかるんだ?」
堰を切ったように、おじさんたちが、女性従業員に詰め寄るのだった。
「説明をしろ。説明を」
「こっちには仕事があるんだ」
「早くしろ」
しかし華やかな恰好をした女性従業員は、ひたすら頭を下げ、謝ることしかできない。おそらく、彼女たちにも事情がわからないのだろう。

1時間が過ぎ、2時間が過ぎようとしているときに、空港のテレビから、こんな映像が流れてきた。

【暴走羽田空港】クルマを強奪、滑走路内を約40分間

28日夜、東京都大田区の東京国際空港(羽田空港)で、空港に勤務する女性からクルマを強奪した男が空港の制限区域内に侵入。約40分間に渡って滑走路などを暴走する事件が起きた。男は最終的にクルマを乗り捨てて海に飛び込み、溺死している。

その時点では事件の詳細はわからなかったが、とにかく、今から向かう空港に、乱入者がいて、そのせいで飛行機が飛ばないと、そういうことらしい。

こんなことがあるんだなあと思いつつ、ひたすら待って、飛行機に乗って、しかし羽田空港は滑走路が何本か閉鎖されているらしく、東京の上空に着いたはいいが、なかなか着陸許可がおりずに、ぼくの乗る飛行機は、東京湾岸から房総半島をぐるぐると無為に回っていた。ふと、そんなことを思い出した。

昨日も一軒パチ屋に行って、打つ台なし。備えあれば憂いなしとは言うものの、何も起きなかったことの幸せは、何かことが起きないことにはわからないし、何かことが起きてからでは遅いことがほとんどである。

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