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ぼくは今、穴の中にいて、そこから何とか脱出しようとしているところ。

そんなぼくは、学校式教育方法で育ったわけで、しかしぼくたちが教わったことといえば、標準形という枠にハマるべしということであり、枠というのは、見ようによっては穴で、当然、穴から這い出たいというときに、役に立つものではない。

そんな旧文部省的な教育の問題が最も顕著な形であらわれるのは、「体育座り」だろう。

”体育”座りという、一見、体のためを思ってくれているような名前を冠しているが、人体工学的に言うと、あれは最悪の姿勢だという。自分の身体の自由を、自分の手足で縛る。そのうえ、内臓と座骨を圧迫する。あのような姿勢を好む野生の生き物はいない。むしろ虐待に近いのだ、と。

今も強制されているのかどうかはどうかわからないが、学校の行事といえば、あの座り方が基本だった。全員に同じ姿勢を取らすことで、監視装置としても、さらには、隣組のような、同調圧力装置としてもパーフェクト。1965年、旧文部省の学習指導要領の補足で始まったというこの姿勢は、まさに悪魔の発明だ。

この議題に即して、少し前に話題になった、サッカー元日本代表同士の「宿題をやる/やらん論争」を見てみたい。






本田圭佑は、嫌なら宿題はやらなければいい、と言う。対して武藤嘉紀は、最初から嫌なものをしなくていいというのは危険だ、と言う。

どちらにしても、子供に幸せになってもらいたいというのが、前提にあるのだと思うが、この論点は、宿題の是非ではなくて、嫌なことをするか/しないかという選択ではないか。

サッカーでいえば、守備に意識のある選手よりも、攻撃全振りの選手の方が得点の蓋然性は高い。しかしそのような選手ばかりのチームは、相手に得点を許す蓋然性が高い。決定力を上げたければ、嫌なことはしないに限る。失点を防ぐためには、嫌なものは無い方が望ましい。どちらを選ぶにせよ、ギャンブルである。

そのうえでぼくが強く思うのは、どれだけ大人の手間が減ったとしても、子供の個性を奪う類の教育は好ましくないということと、それをするのが本当に嫌だ、したくない、という主張があって、かつ本田圭佑のように強くない人が、それでも嫌なことを拒否して生きる難易度の高さについてである。




枠というのは、前提があるということで、前提的な理想があるということで、その教えには、前提から外れたものを許容する機能がついていない。肌の色は、肌色というラベルで統一され、差異、グラデーションについては考慮されない。

夢を持てという人は、”夢”を持つことが大前提的に良いもので、かつ自発的なものだと思うからそう言うのだろう。対して、夢を語るよりもまず、やるべきことはやるべきだという人は、”やるべきこと”が大前提的に必要なもので、自発的、内発的な感情よりも優先させるべきという考えがあるから言うのだろう。

これに関しては、正解はないと思う。人それぞれ優先したいものは違うのだから。選択はギャンブルであって、成功/失敗はつきものだ。

しかし、選択できないこともある。たとえば、生まれた場所、親、最初に覚えた言語。#Black Lives Matter(黒人の命も大切だ)に対して、All Lives Matter(すべての命も大切だ)というタグを掲げる人は、つらい、と訴えている人に向かって、人間はみんなつらいんだから我慢しろよ、というメッセージを発していることに、自覚的なのだろうか? それがとてつもない侮辱だということも。

どれだけ優れた「枠」があったとしても、ひとりひとり違う人間に、全体の理想を追わせるのは酷だと思う。選択の前に、まずは生きることの肯定を念頭に置くべきではないか。そして、失敗は死ではないことも。個を犠牲にする土壌の上に咲いた花はもう見たくない。

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