現実の生において問題なのは強い意志と弱い意志ということである。

フリードリヒ・ニーチェ

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スロット打ちの思想

6章 最終目的地へ

2-2 それでも私は自由でありたい




何が嫌だと言って、まず思い浮かぶのは、怒られることだ。という事実が浮かび上がらすのは、誰かを怒らせてきた歴史だろう。

自分が特別であること。それはまず、褒めるという形で、両親が与えてくれた。おまえは特別なんだよ、と安心させてくれた。当然の帰結として、反対側にある、不安や恐怖というネガティブな感情も覚えてしまった。

なぜ不安かといえば、誰かが急に怒り出すのではないか、と想像するから不安なのだ。たとえ今という時間がよかったとしても、その時間がどこまで続くかは、誰も教えてくれない。だから不安なのだ。だけど、じゃあおまえは怒らないのか? と言われると、困ってしまう。そりゃ怒ることもあるよ、と答えるしかないからだ。

自己/他者の間にあるこの大きな溝【/】を利用とするところから、おそらく文化のスタート地点である遊びは始まった。

ロジェ・カイヨワの「遊びと人間」によると、遊びはまず4つの要素に分類ができるという。

・競争→アゴン
・運→アレア
・模擬→ミミクリ
・眩暈→イリンクス

すべてのスポーツは、「競争/アゴン」の要素がある。すべてのギャンブルは「運/アレア」の要素がある。すべての芸術は「模擬(模倣)/ミミクリ」の要素がある。すべてのアトラクション(観覧車、ジェットコースター、お化け屋敷等)には「眩暈(めまい)/イリンクス」の要素がある。ゲームやカジノは、アゴンとアレアの組み合わせだし、ダンスや音楽はミミクリとイリンクスの組み合わせ。おそらく地球上にあるすべての娯楽は、この派生形なのだろう。

そんな遊びには、2つの軸がある。自分が嬉しいことが嬉しいという軸。自分が嬉しいことをどこからか持ってくるという軸。内面的な嬉しさを求める前者は遊戯として、外面的な嬉しさを求める後者は競技という形として結集する。

書くこと、賭けること。ぼくにとっての文章が「遊戯」、ぼくにとってのスロットが「競技」、そのままピタリという感じで気持ちがいい。

はい。楽しさの根拠は、自分が今、ここに存在しているという主体的な事実である。自分がここにいないのに、楽しいということは原則ありえない。他人がそこでスロットを打っているのを見たり、そこで行われているスポーツを見たり、そこでまぐわうAVを見たりするときに、ここ(脳)で起きているのは、他者(そこ)≒自分(ここ)という置換である。あくまでも、一人称は自分なのだ。

しかし、そんな魔法のような一人称にも限界がある。嫉妬という感情だ。【そこ】は、【ここ】じゃない。そいつの存在に、自分を仮託できないのだ。そこをここに置換できないのは他者の否定であり、他者の否定は、最終的に自己の否定につながるがゆえに、苦しい感情である。すべてを「ここ」にできたらどんなによいか。

何年か前に、友人の結婚式の二次会に呼ばれた際、アルバイト時代の後輩が、文学賞を取って、小説家になったという話を聞いた。おいおいマジかよマジですか、と思ったものの、後輩の小説を手に取ることはできなかった。嫉妬だ。はっきりしとる。

数年の冷却期間を経た去年、嫉妬の炎が落ち着いたと見て、後輩が書いたという小説を手に取った。これが、面白かった。ぼくには決して書けない作品で、あっという間に読んでしまった。そのときに思ったのは、おれも成長したなあという不思議な解放感だった。あの作家先生と、同じ空間で働いていた事実を誇らしく思うなんてことは思えるはずもなかったが、「頑張ってください」というエールくらいは送れるだろう。おそらく会うことはないだろうが。というか、会ったら嫉妬の炎が再燃しそうだし。

どうして小説を読んで開放感があったかというと、小説の出来ももちろんがあるが、その前に、嫉妬のメラがあったからだ。緊張と緩和である。メラを抑え、かつ、その行為を楽しんだのだ。メラ、メラミ、メラゾーマ。嫉妬の炎に身を焦がしていた頃よりも、ぼくは自由に近づいたのだ。

エロ業界というか、物語界隈において、NTRという新ジャンル(フェチズム?)が、ここ十年ほどで一気に市民権を獲得した感があるが、この、ネトラレという、自分の彼女ないし奥方が、他人とイチャイチャする、あるいはそのものズバリの行為をしているのを”見つめる”というプレイ内容は、あるいはその物語を眺めることは、嫉妬や、不安のような、マイナスの感情を楽しんじゃおうという逆転の発想なのかもしれない。武器を備え、防具で固めていったその先に、無手こそが最強と気づいたというような、究極の倒置法。はた迷惑な話だが。

ともあれ、ネガティブを、不安を、恐怖をこそ楽しむ。それは、一人称を仮託する相手は、全世界ということだろう。自分の一番つらい出来事すらも、楽しい対象になる。物語に出てくるかわいそうなやつ、敵、それが自分でも、楽しい。

……また、何かを思い出しそうになった。自分の特別性が失われてもまだ、脳は何かを遊びたいのだろうか。遊びは、自分の特別性を担保にしているのではなかったのか。それは、あるマンガの記憶だ。

小中学生の頃に夢中で読んだ、「うしおととら」という、妖怪を退治するマンガがあって、その中で、ある妖怪が、ある質問を人間にして、答えられなかったら食ってしまう、ということを繰り返しているという一話があった。

その質問とは、
02
うしおととら19巻より

この質問に答えるのは、主人公のうしおではなく、ヒロインである麻子でもなく、もうひとりの主人公”とら”と仲良くなる女の子、”真由子”だった。

彼女は、妖怪に対して、こう言い放つ。

「泥なんて何だい、よ」と。

それは、彼女の小さい頃の記憶だ。その日、真由子は、お気に入りの麦わら帽子を、どろどろの沼地に飛ばしてしまった。そこに現れたのが、少年うしおだった。うしおは、一張羅を着ている。どこか、特別な場所に行くのだろうか? しかし蝶ネクタイ姿のうしおは、何の躊躇もなく泥沼に入って、泥だらけになりながらも、麦わら帽子を取ってきてくれたのだった。

真由子はうしおの姿を見て、感謝の気持ちを伝えたいという表情で、「あ、ありが…」と言おうとするのだが、しかし言葉を最後まで言えない。これからどこか特別な場所に行くだろう”うしお”が、泥だらけになってしまったからだ。

申し訳ない気持ちでいっぱいな真由子に対して、うしおは、「大切なんだろ? それ?」と聞く。
「う…ん」

「なら…」とうしおは言うのである。「泥なんて何だい!」と。

実際うしおは結婚式に行く予定であり、お父さんにこっぴどく叱られた。

真由子は、そんなうしおのことが好きだった。しかし真由子は、親友の麻子がうしおのことを好きなこと、うしおが麻子のことを好きなことも知っていた。

妖怪は、そんな真由子に、「満足する死とは何だ?」と聞いたのだった。

真由子は、「泥なんて何だい、よ」と言って、ビルの上から飛び降りる。妖怪の思い通りになんてさせない。そんな真由子の献身を受け止めるのは、主人公のうしおではなく、もう一人の主人公、妖怪である”とら”だ。落下する真由子を受け止め、とらは、質問妖怪ーズを滅するのである。

中学生の頃、この漫画のこの一話を読んでぐっと来たが、その”ぐっ”が20何年か経って、巨大な、あまりにも巨大な意味を持って、迫ってきた。
03
うしおととら19巻より

思い出すだけで、泣きそうになるのに、こんな画像を貼り付けたりしたらどうなる? 泣いてしまう。どうしてこんなにも心が動くんだろう? 何の躊躇もなく、自己犠牲を選べる人間がいるという事実に、だろうか。

でも、それは、自分が決してできない特別なことなのだろうか。たとえあとで親に怒られることになったとしても、泥まみれになったとしても、その子の笑顔が見たいというのは、そんなにもおかしな選択なのだろうか。

そう、それだって遊びではないのか?

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