私が生あるものを見いだしたところ、そこには必ず力への意志があった。

フリードリヒ・ニーチェ

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スロット打ちの思想

5章 ギャンブルとは遊び

2 交渉決裂



幸せになるために、必要なのはぶっちゃけ何なん? のコーナー。

存在の最も内的な本質は力への意志である、とニーチェは言う。

その力って何だろう。

われわれが作用される存在であり、力であること、これはわれわれの根本信念である。自由とはすなわち「突かれも押されもしておらず、強制されている感じがないこと」なのである。

うーん、ちょっとわかりにくい。

何か障害に出くわし、それに屈せざるをえないとき、われわれは自由ではないと感じる。それに屈することなく、それの方をわれわれに屈するように強いるとき、われわれは自由である。すなわち、われわれが自由と呼ぶものは、自分の力の方がより大きいと感じるその感情であり、自分の力の方が強いていて、相手の方が強いられているという意識なのである。

わかるような気がするが、イラっともする。この文章のどこに「イラ」が隠れているんだろうか? 縦読みか? 屈するという文言か? ともかく、力への意志は、次のように現れるとニーチェは言う。なになに。

(a)被抑圧者や各種の奴隷のもとでは「自由」への意志として。ただ自由になることだけが目標に見える。

(b)力へと成長しつつある、より強い者たちにおいては、力の優越への意志として。始めにそれが不成功に終わると、今度は「公正」への意志に、つまり他の支配的な者たちが持つのと同程度の権利への意志におのれを制限する。

(c)最も強い、最も富める、最も独立的な、最も勇敢な者たちにおいては、「人類への愛」として。「民族」への、福音への、真理への、神への愛として。圧倒し、心を奪い、おのれに奉仕させる行為としての、同情、「自己犠牲」等々として。方向を与えることのできる大きな力を持つ者、すなわち英雄、預言者、帝王、救世主、牧人などの仲間に、おのれを本能的に数え入れることとして。

1、最も力のない人間は、ただ「自由」を求める。
2、次の段階では、「公正」を求める。
3、最終的には、「愛」を、「同情」を、「自己犠牲」を求めるようになる。

何かちょっとおかしくないか? ぼくの感情に呼応するように、「これがニーチェだ」の永井均は言う。

ニーチェ哲学の全体を統括するはずの「力への意志」という概念が、じつは弱さの指標であるという奇妙な逆説が、払拭しきれない疑念となって迫ってくるだろう。と。

ニーチェの思想は、弱者の思想ということなのか?

力への意志は、「最も強い、最も富める、最も独立的な、最も勇敢な者たち」においてさえ、「同情」や「自己犠牲」のごとき、極端に肥大した卑小な行為としてしか現れない! 最も強い者とは、畜群を圧倒し、その心を奪う牧人(つまり僧侶!)でしかないのだ。最高の力への意志といえども、あまりに卑しく、あまりにも弱い。
と、永井は言う。

そもそもさ、とぼくは思う。強いとか、弱いとか、自分はどの位置にいるんだろうみたいな考えを抱くことじたいが、自由じゃないんじゃない?

ことここに至ってはっきりしたのは、ニーチェの言うことが、好きになれないという事実だろうか。というよりも、ぼくにとっての最優先事項と、ニーチェにとっての最優先事項が、違うことが明白になったというべきか。なぜって、明らかにニーチェは、自らのうちにある、父なるものと、対峙している。ぼくのうちにある、父なるものの姿はそこには見えない。知らん人や。ぼくが強く感じるのは、ニーチェが当たり前に持っているものを、ぼくは持っていない、という疑念である。ニーチェが疑っていないことを、ぼくは疑っているという疑念。神は死んだと言っておきながら、そのシステムを再利用してるだけじゃないのか? という疑念である。

「これがニーチェだ」で、永井均は言う。

「貧乏人のパースベクティブ(寿注・観点/視点)からは、すべての人間がもっと金持ちになりたがっていて、それには例外がないように見える。人間の行動のすべてはそれで説明がつくように見える。そう見えるのはじつは自分が貧乏人であるからにすぎないという真理は、そこからは見えない。同様に、力なき者のパースペクティブからは、世の中のすべては『力への意志』で説明がつくように見える。そこからは、その外に別の空間があることが見えない」と。

神は死んだ、とニーチェは言った。プロテスタントの牧師の息子として生まれたフリードリヒ・ニーチェは、そのおそるべき誠実さをもって、あらゆる事象を断罪し、方々に喧嘩を売り、すべてを手放していった。そんなニーチェが、神の次に手放したのは友情だった。何かにつけて大仰だったり、何かにつけて式典が好きな人というのは、いますよね。



日本の卒業式でも定番のこの曲を作曲したヴァグナー(=ヴァーグナー/ワグナー/ワーグナー/ワグネル)との決別について、ニーチェは次のような文章を残している。


       §

星の友情――我々は友人であった。だが疎遠になってしまった。そうなるのが当然だったのだ。(中略)われわれはそれぞれの目的地と航路をもつ二そうの船だ。ひょっとするとわれわれは再び出会い、あの頃のように一緒に祝祭をあげるかもしれない。――あの頃は、勇猛果敢な二そうの船は、一つの港に一つの日光を浴びて横たわり、同じ一つの目的地をめざしてすでに目的地に着いたかのように見えていたかもしれない。しかし、やがてわれわれの使命の全能の力が再びわれわれを別れさせ、別の海洋、別の海域へと駆り立てたのだ。われわれはもう二度と出会うことがないかもしれない。――出会うことがあっても、もうお互いを見分けることはできないだろう。さまざまな海と太陽がわれわれを別な者に変えてしまっているだろうから。われわれが疎遠になるしかなかったこと、それはわれわれを支配する法則なのである。まさにそのことによって、われわれはまた互いにいっそう尊敬しあえる者となるべきなのだ! まさにそのことによって、われわれの過去の友情の記憶がいっそう聖なるものとなるべきなのだ! おそらく、われわれのまったく異なる道筋や目的地が、その小さな一部として包まれるような、目に見えない巨大な曲線と星辰軌道が存在するはずだ――こういう思想にまでわれわれは自分を高めよう! だが、こうした崇高な可能性の意味での友人以上のものとなるためには、われわれの人生はあまりに短く、われわれの視力はあまりにも弱い。――だからわれわれは、地上では互いの敵であらざるをえないにしても、われわれの星の友情を信じよう。

       §


失ってしまった友情だけが美しいのか、美しい友情だけが、失われてしまうのか。ともかく友情は、どこかに消えた。今、ぼくの船は、どこに向かって進んでいるのだろうか?

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