ひとりの人間がどの程度まで「信念」にではなく仮説に基づいて生きていけるか、限りない大海原に乗り出して行けるか、これが力の充溢を測定する最高の尺度である。

フリードリヒ・ニーチェ


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スロット打ちの思想

5章 ギャンブルとは遊び

1 幸せ


ビリー・アイリッシュ先生が、クリエイターというか、すべての悩める者に向けて、こんなエールを送っている。

自分がやりたいことをやりましょう。私に言えることはそれだけです。あなたが幸せになれることをするだけです。

人を傷つけない限り、あなたのやりたいことをすればいいんだと思います。あなたを幸せにすること、喜びをもたらすこと、誇りに思えること、あなたが何かをやり遂げたと感じられることをやりましょう。

何かを書いたり、音楽を作ったり、絵を描いたり、歌ったり、写真を撮ったり……。なんでもいいんです。ぜひ自分が幸せになれることをしてください。

彼女は別に、突き放したくて「何か」という言葉を使っているわけではない。実際、その人の幸せは、その人しか知らないのだ。

幸せの青い鳥を探して、過去に、未来に出かけたら、自分の家にいたというのが、チルチルとミチルの旅行記「青い鳥」だった。幸せの道しるべは、できるだけ間違いのない指標、「楽しさ」こそが望ましいというのが、おそらく、「スロット打ちの思想」の最終的な結論になるのだろうと思う。

だけど、まだ断言はできない。楽しさが本当に、間違えることはないのだろうか? アルコールやその他、向精神薬による楽しさは、本当の楽しさなのか? 積み上げる系の楽しさは、今を犠牲にしているとは言えないか? その途中で死ぬ可能性に対しては? そのためには、もう一度、ニーチェ先生の言葉に戻る必要がある。

「よい」「わるい」を決めるのは簡単である。料理は、おいしいか、まずいか。小説は、おもしろいか、つまらないか。ボクサーは強いか、弱いか。センスがなくとも、専門知識がなくとも評価できてしまう価値基準だ。

さて、そうだとすると、人間の「よさ」はどうだろう、と(「これがニーチェだ」)の永井均は言う。また、人生のよさはどうだろう。よい人とはどんな人であり、よい人生とはどんな人生なのか。

答えはない、と永井は言う。料理や小説やボクサーと違って、人間の場合は、よいわるいの基準が定まっていないからだ。そして、多くの人が何をよいと感じるかを調べてみたところで、それがほんとうによいのかどうか、私もまたそれをよいと感じるべきかどうか、は決められない。

ニーチェはそこで、評価基準の方法に関して、新しい視点を打ち出したのである、と永井は言う。

それは、直接的な自己評価こそを究極的なものと考えるという視点である。何を評価基準にしようと、それは自由だが、とにかく自分で自分をじかに肯定できるということ、これこそが人間の「よさ」を最終的に決める、というのだ。

※太字が「これがニーチェだ」本文から引用



コロナ禍で、次のような訴えをしている人がいた。

「コロナで仕事なくなった。コロナかかるよりつらい」と。

このご時世に放り出されるのは、さぞかしつらいことだろう。しかし、一口に新型コロナウイルスといっても、症状は千差万別で、重篤化する人もいれば、無症状の人もいる。死に至る人もいる。つらさには、グラデーションがある。対して失業は、100%に近い確率でつらい。それが楽しいという人はたぶんいない。比較対象とすれば、片方が100%なのだから、もう片方も100%であるべきではないだろうか。という公平性を突き詰めれば、仕事なくなった、地球もなくなれ、と思う人も出てくるかもしれない。あるいは、仕事なくなった、そんな私もなくなってしまえ、と思う人もいるかもしれない。そんな極論に比べれば、人格の存在しないウイルスのせいにしてしまうのは、一計といえば、一計なのかもしれない。

相対化は便利なもので、人生でかかった一番しんどい病気に比べれば、仕事を失う方がマシだ、という風に思うことも可能だし、フラれるくらいなら、仕事を失った方がマシだ、という風にとらえることもできるだろう。

かつて、職を失ったときに寿はこう思った。
「よし、小説を書こう」と。

こういう逆バンジーみたいなやつもいる。バンクシーも驚きの作品を書きたい。ただそれは、何週間か経ってのことだったし、その何週間かで、仕事以外で色々失ったもの=得たものがあったからだ。ともあれ、失業こそしていないが、当ブログも、このコロナ禍の二か月で、驚くべき変化があった。

3月の「書くこと、賭けること」のPV(見られた数)は、16万830PV、1日に平均して5188PV、訪問人数4472人という過去最高のものだった。4月はというと、6万2691PV。1日にして2089PV、実に10万PV減である。5月はさらに急落、4月の1/6ほどで推移している。

これは、新型コロナウイルスのせいだろうか?

否。圧倒的否。と、寿は考える。今、パチスロは、打てる状況にない。パチスロに触れない寿という書き手の文章には需要がない。そんな二つの事実があるだけだ。そして、パチスロがあったところで、需要が戻るかはわからない。これが論理的な帰結だろう。

ニーチェは、この論理というものにも、疑いの目を向ける。

論理とは、生物としての人間の生存にとっての有用性という観点から偽造されたもの」と。

今日、なぜニーチェ思想やそれに類するものに救いを求めるニーチェ的弱者が生まれつつあるのか、という問いを、永井均は立てる。そして、この問いがニーチェ哲学に関する問いであれば、すでに答えは出ているという。

その人間理解と世界解釈に基づく力への意志説が、強くなりたい人々の、自分を強者だと思いこみたい人々の、つまり力への意志が強い弱者たちの、心をとらえるのである

しかしスロッターは、自分に合わせて世界を解釈するのではなく、世界の方に、自分の態度を合わせる実在論者のはずだった。この場合、少なくとも、実在世界において、何かを捻じ曲げて真理に到達しようとする英雄たちに比べれば、スロッターの力は強いということにならないだろうか?

では、スロッターに比べて、サラリーマンは強いだろうか? 安定という意味では、強いかもしれない。では、サラリーマンに比べて、公務員は? 安定という意味では、強いかもしれない。

安定は、力だろうか? そもそも、力への意志なるものは、人間にとって幸せの根拠になり得るのだろうか?

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