そうなのだ。わが兄弟たちよ。創造の遊びのためには、聖なる肯定が必要なのだ。精神はここで自分自身の意志を意志するようになる。世界を喪失していた者が自分の世界を獲得するのだ。

フリードリヒ・ニーチェ
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スロット打ちの思想

1章 ギャンブルに勝つには

2-1 悪い場所で、良い行いは可能か
 


スロット打ちの快楽は、2種類ある。ひとつは、勝利。もうひとつは、攻略。

勝ちたいというのは、打ちたいと変わらない。営利企業が提供する娯楽に対して、打ちたいというのは、負けたいと変わらない。できれば、攻略する側に回りたい。

しかしながら、攻略というのは、幅の広い言葉である。忍び込んで、現金を強奪するというのは、攻略だろうか? パチスロのシステムを外部からハックして、コインを不正に出すというのは攻略だろうか?


永井均「これがニーチェだ」の1章は、「なぜ人を殺してはいけないか」という問いについて、ニーチェは解明し尽くしている、という言及で始まる。

子供に、なぜ人を殺してはいけないかと質問されて、即答できる大人が何人いるだろうか。

太字が引用

まず第一に、この問いにはほんとうは答えがない。もし正直に答えたければ、究極的には理由がないが、「とにかく」殺してはいけないのだ、と答えるほかはないのだが、それは問う者を、すでに問うてしまった者を、けっして納得させない。


確かに、自分の人生がもうどうでもいい。死んでもいい。という人間に対しては、どんな答えも、用をなさない。では、どうすればいいのか?

何よりもまず自分の生を基本的に肯定していること、それがあらゆる倫理性の基盤であって、その逆ではない。それがニーチェの主張である。だから、子供の教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人生が楽しいということを、つまり自己の生が根源において肯定されるべきであることを、体に覚え込ませてやることなのである。生を肯定できない者にとっては、あらゆる倫理は空しい。この優先順位を逆転させることはできない。

ニーチェは、19世紀の人であり、プロテスタントの牧師の子として産まれた。当然、キリスト教徒としての生活を送ってきた彼が、神は死んだといったのである。

ここでぼくが問題にしているのは、ニーチェの人生ではなく、当然ぼくの人生であって、ぼくの疑問は、ゲームの内側にいて、そのゲームのルールを変えることは可能なのだろうか? ということである。

つまり、ギャンブルを、ゲームの位置まで引き下げてしまう。それは、可能なのか?

嫉妬深い者は他人が水準を超えて傑出すればすぐにそれを感じ取り、相手を水準まで引き下げようとする。――あるいは自分をそこまで引き上げようとする

ニーチェの言葉を受けて、永井均は言う。

強くなりたい相撲とりが取りうる方法は二種類ある。第一は、稽古に励んで自分を強くすること、または相手を(何らかの手段で)弱くする方法であって、これが一つである。第二は、自分や相手を変えるのではなく、勝ち負けを決めるものを自分に有利な何かに変えることによって、「ほんとうの勝者」になることである。第二の場合にのみ解釈の変更がなされることに注目されるべきである。

ぶどうに手の届かなかった狐が「あれは酸っぱいぶどうなのだ」と言ったとしても、それはまだ相手を引き下げているにすぎない。だが、その狐が「ぶどうを食べる生き方は正しくない」と言ったとしたら、彼はひとつの解釈を作り出したのである。このとき、狐の力への意志は解釈への意志に変換される。ニーチェのルサンチマン理論の本質はそこにある。弱さの、卑小さの本質は、解釈への意志にあるのだ。

弱者は力への意志が弱いのではない。むしろ強いのだ。だが、彼らは力が弱い。


ぼくは、小説家を目指そうとした第一歩目に、稽古に励んで自分を強くする道を選んだ。なぜなら、週刊少年ジャンプ世代だからね。

しかし、そんなぼくの選択は、はたして合理的な選択だったのだろうか?

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