芸術は本質的に現にあるものの肯定、祝福、神化である。

フリードリヒ・ニーチェ

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スロット打ちの思想

6章 最終目的地へ

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 壁に耳ありブラッディメアリー


おはよう、と言って鏡を見る。そこに映っているのは誰だろう? 見たい自分だろうか? それとも、見たくない自分だろうか?

何かに映る自分といっても、その姿は様々で、「最高のキメ顔」を自分と仮定するのか、写真映りが悪いにも程がねえ? という「目ェ半開きアイーン」の自分を、自分と仮定するのか、どんな人間であっても、最高到達地点と、コンディション極悪時を比べると、一人の人間とはとても思えないほどの幅がある。また、年齢や、服装、体調、時間帯によっても違ってしまう。

何をするにしろ、持ち時間は減っていく。まったく困ったことに、人間のやることなすこと、腐敗する一方だ。特に善きことは、急角度で墜落する確率が高い。であれば、悪いことを、他人に悪いと思われたとしても、好きなことをしたい。そうして世界をかきまぜたい。というのが、スロット打ちの思想の背骨だった。

ただ、一口に悪いことと言っても、ぼくは犯罪がしたいわけではない。楽しいことがしたいだけだ。要するに、優先順位の問題である。1、誰かのために、2、寄付をする。というのは、偽善的な臭いがすごい。つまり嘘くさい。ゆえに持続可能性の強度が低い。ぼくの場合。1、自分の快楽のために、2、寄付をする。これだけでぐっと楽しさは上がるし、続けやすい。そのために、軸をはっきりさせたいのである。

ああ、また終わりが近づいてきてしまった。深夜、眠いにもかかわらず、マンガをめくる手が止められなくなるように、何かを書いているときも、続きを書きたくて気が気でなくなる。同時に終わることが寂しくなる。

少し違う話でもしてお茶を濁そうか。と思わないでもない。が、終わるべき”時間”を引き延ばした先に待っているのは、地獄である。どれだけ美味しい果物も、旬を逃した瞬間に、不味くなる。不味くなるだけならまだいいが、腐敗し、とても食べられないモノに変質してしまう。

作者が引き延ばそうとしている現実の時間は、作中の時間を加速させる。夕食に呼ばれて、ディナータイムが8時間も16時間も32時間も続くようなものだ。そんなにたくさん飯はいらん。第一、テンションが持たん。

超長期連載、あるいは、傑作の続編がつまらなくなる理由は、だいたいがこれだ。続編を傑作にする条件をあげるとすれば、1が駄作であることくらいだろう。そうなる前に、駆け抜けなければいけない。スピード感などという言語矛盾(スピードがあるように見せかけるというのは、つまり、遅いということだ)ではなく、文字通り、最高速度で。これは、書き手がしなければいけない最低限度の義務だろう。

と、方々に小便をまき散らし、マーキングを済ませたところで、本題に入ろう。巷間でささやかれている正体不明の言説に、「男性と女性の性の感度は10倍違う」というものがありますね。

おそらく体感することは叶わないだろうが、実体験として、クラブに通い始めた二十代そこそこの頃に思ったのは、これが女の人にとってのセックスだろうか、ということだった。いや、何かキメていたわけではないですよ。音楽と、ミラーボール。それだけ。友達と、アルコール。それだけ。DJと、回るターンテーブル。それだけ。それだけ。照明と、スモーク。それだけ。光る汗と、誰かの香水。それだけ。それだけのことが、普通じゃない。並外れてる。マジで最高だなこの曲、でイキそうになる。最高潮に達したと思った次の瞬間には、もうツクツク四つ打ちが鳴っている。

「まだイケるかー?」

「まだイケルぜー」

頭、クビ、体を揺らし、ノドが渇けばアルコールを投入し、また、活気づき、頭、クビ、体を揺らし、気づくと朝方。つるとんたんでうどんでも食べて帰ろうか。


私はあまりに満ち足りている。それで、私は自分自身を忘れてしまう。すべてのものは私の中にあり、すべてのもののほかには何もない。私はどこへ向かっているのか?

フリードリヒ・ニーチェ


あの密の中には、自意識みたいなものが存在しなかった。言葉もない。時間という感覚もない。あるのはただ、楽しさだけだった。爆音、ウーハー、ピカピカ光る。パチ屋と条件が似てますね。

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今は昔のバジリスク。

どこの国の経済成長でもそうだが、たとえそれが設定6だったとしても、右肩上がりというのは、どこかで止まる。そのときに、「初期設定を思い出そうぜ」というのも、スロット打ちの思想の一つだろう。設定がいいのであれば、閉店までぶん回すだけなのだ。

しかし現実は、思想のはるか先を進んでいく。設定6は、その日限り有効な設定であって、翌日の設定は、ほとんどの場合1だ。というように、思想には、有効期限、有効範囲というものがある。

たとえば、「死を想え」というラテン語メメントモリ。これは、実にヨーロッパ人口の1/3とも世界人口の1/4が死亡したとも言われているペストをきっかけにして定着した言葉だと言われている。人類はそこで、思想、価値観、すべての転向をはかったのだろう。フリーセックスという思想が、エイズの登場によって、変更を余儀なくされたように、マイナーチェンジ、ヴァージョンアップは、人の世の常。それはちょうど、朝起きて、顔を洗うような義務なのだ。

朝起きて、顔を洗おうとすると、薄汚れたぼんくらが鏡に映る。いや、待てよ、と思う。どうして朝起きて、顔を洗わなければいけないんだ? ずっと何となく洗ってきたが、それは本当に、しなければいけないことなのか?

賭け事で小銭を稼いでいたのに、賭け事ができない。欲求不満、運動不足、不完全燃焼の顔が、そう言っている。顔を洗うことの優位性については正直よくわからない。目を覚ます効果があるのかもしれない。目ヤニを取り除くためかもしれない。寝ている間に、自分が他人になっていないかを確認するための作業なのかもしれない。これが義務かどうかはわからないが、鏡に映る、欲求不満、運動不足、不完全燃焼の顔が自分であることは、間違いようのない事実であり、義務といえば、これ以上ない義務である。ここに、期待値を見つけることも可能なのだろうか?

可能だと思う。しかし、そのためには、エネルギーが必要だ。そのエネルギーをどこから持ってくるか。

自前で備えるのか、もらうのか、盗むのか、どこから買ってくるのか。何であれ、餌が必要なのだ。生き血が。あるいは生贄が。そのうえで、場が必要なのだ。広がりのある空間が、そして処刑台が。

さあ、最後のパーティを始めよう。

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