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「仮説と確率の実験室」を読んで。

久々に読んでみたが、何が言いたいかよくわからなかった。実験室を出ても、結局、別の実験室に向かってるやんけ、みたいなことだろうか。人間は誰しも、何かしらの奴隷なんやね、ということが言いたかったのだろうか。

感想文というのは、難しいものですね。作者の気持ちを考えろといわれても、当の本人には、もうほとんど記憶がないため、作者の気持ちも何もあったものではない。というか、気持ちというものは、その瞬間、瞬間で移り行くものであって、固定できるものではない。

楽しかったです。感動しました。というように、気持ちを一言で表現するのは可能だ。しかし、気持ちは常に動いているため、どこをどう切り取るかによって、表現が変わってくる。

学校教育では、ネガティブな表現を控えさせる傾向があり、つまらなかった。気分が悪くなった。感想なし。ということはなかなか言えない。

つまるところ、感想文を書くというのは、小説を書くのと同様の作業工程(切り取り、加工、創造)が必要で、そのうえ、自粛要請というような、表現矛盾(自粛は、自分で決める態度であり、他人に強要されることを、自粛とは言わない)を含む忖度を強いられるため、楽しかったです。感動しました。くらいしか、書くことがなくなってしまう。

これは言い訳だろうか?

我々は、小さい頃から、気持ちを伝えよう、みたいなことを言われて育つ。起きたときは、おはよう。人に何かをしてもらったら、ありがとう、別れ際には、さようなら、会ったときは、こんにちは。

が、これらは、気持ちとはほぼほぼ無関係の決まり事で、しなければいけないこと、礼儀だとか、常識だとか、道徳だとか、倫理といった水準の話である。

なぜ、決まり事があるのかというと、いたずらに人の心を乱さないためだ。挨拶をしなかった、というだけで乱れるのが人の心であり、しかし心を言葉にするのは容易ではない。結果、礼儀だとか、常識だとか、道徳だとか、倫理という決まりが生まれる。

個人的な気持ちを言うと、群れてスロットを打っている人が好きではない。ぼくという個人の利益を脅かすからだ。

だけど、彼女たちにも、理由があり、合理性があって、その生活をしている。生きている。

おそらく、この、生きている、というのがポイントである。唯一にして、無二の共通点。生きている。そう、誰であれ、生きる権利はあるのだ。18歳以上であれば、パチ屋に入店できるように。それが、表現の自由の持つ意味だろう。生きている者に対して、生きるな、と言う。これが、表現の自由を脅かす者の声だ。それは、感想とは言わない。端的に犯罪行為である。ネガティブやポジティブは関係ない。人間にあるのは生きる権利であって、殺す権利ではない。自由万歳。

書くこと、賭けること 寿
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