エッセイというと、気軽な読み物、というイメージがあるが、もともとのessaiというフランス語の原義は「試み」ということらしく、「試論」まだ完成していない叩き台のような文学ジャンルだったらしい。それをやりたい。
「好きなことで、生きていこう」というのは、いつかのyoutubeの標語だったが、好きこそものの上手なれ。その考え自体は合理的なものだろう。
が、好きという、個人的な評価だけでは生きていけない。
「私もあなたのことが好きです」という返答のような、「お墨付き」がどうしても必要になってくる。
たとえば、お金(ドン)
それもそのはず、ある程度のお金があれば、誰であっても、好きなことだけをして生きていけるだろう。それは、日本銀行が、あなたにとっても、別の人にとっても、同じ価値を担保してくれているからだ。
一個の生命体の存在を許すのは、自分ではなく、他者の存在なのか。
ご飯を御馳走してくれる誰かだったり、住まいを提供してくれる誰かだったり、生活を担保してくれる誰かがいる場合も、好きなことだけで、生きていけるはず。
ぼくが文章だけで生きていけないのは、ぼくの文章が、この、他者の評価にまで達していないからだ。
お墨付きがもらえるかどうか、その確からしさを表した言葉を、「期待値」という。
人間の社会は、この期待値をもとに、発展してきた。
人類は、期待値の観点から、狩猟採集から農耕牧畜へと、生活スタイルを変えた。より豊かで、より確からしい生活へ、国をつくり、インフラ、法整備をした。しかし、そうやって進歩してきた人類も、個別の人間は、期待値を無視したふるまいを取りがちである。
ぼくの文章しかり、たとえば、日本の宝くじを買う際の期待値は、おおむね45%。期待値という観点で見れば、1万円を4500円に交換するようなぶっ飛んだ行為である。夢の値段と考えれば、安い買い物かもしれないが、宝くじを期待値のある買い物、すなわち投資だと思っている人は少ないだろう。
では、どうして期待値を無視したふるまいを取る人間が現れるのだろう?
社会システムが整備された。医療が発達し、なかなか死ななくなった。それもこれも、期待値のおかげじゃないか。
期待値万歳!
ちょちょちょ、ちょ待てよ、という声があがる。キムタク? 否、ぼくたちの心の叫びである。
このわきあがる感情は、夢は、希望は、期待値とは無縁、ほぼほぼ無関係で、いや場合によっては真逆のベクトルからやって来るナニカだる。だるって何だる。キーボードの打ち間違えである。
ぼくたちは、期待値のために、恋をするわけではない。来た位置(何だこの誤変換)があるから「好き」になるわけではない。
打算なき好き、これを愛と呼ぶのではないか。
ぼくにとっての小説や、パチ屋の今後。持続、または継続可能性は、ひとえに、この「愛」の集め方にかかっていると言っても過言ではない。
では、どうやってその愛なるものを集めればいいのだろうか?
村上春樹がジョン・アーヴィングに会った際、「作家にとって大切なのは、静脈注射を打つことなんだ。言葉は悪いけどね」というような話を聞いたらしいが、それがないと生きていけないという中毒者を出すのも、商売(または技術者)にとって、一種のワザ、期待値みたいなものなんだろう。
パチ屋にしろ、ゲームにしろ、youtubeにしろ、読み物にしろ、というかすべての娯楽に、同じことが言えるはずだ。
と、このあたりまでは、割とスムーズに論が進んだ気がするのだが(勘違いかもしれないのだが)、この後の飛躍で、ぼくはいつもけつまづく傾向にある。
この、なんとかなのだが、というのは、尾田栄一郎への愛を込めた引用、または借用、すなわちサンプリングであるのだが(どうして気持ちいいんだろう?)。
ここをバツッと決められるようになると、少しは読める文章になる気がするのだが。