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エッセイ
というと、気軽な読み物、というイメージがあるが、essaiというフランス語の原義は「試み」ということらしく、「試論」まだ完成していない叩き台のような文学ジャンルだったらしい。それをやりたい。

パチスロにおける1000万という期待値の触れ幅は、そこまで広くない。1億円に化けることも、100万円しか手に入らないということも、おそらくない。

それに対して、パチスロにおける1000円の期待値の触れ幅は広い。30万に化けることもあれば、3万負けに沈むこともあり得る(主にGODの話だが)。

積もり積もって、まとまった現金が手に入るとしても、個別の展開は、思い通りにならない。これがパチスロにおける「期待値」であり、ということは、パチスロ稼動の大部分はイライラにあるといっても過言ではないだろう。

スロットを続けてきて、良かったことといえば、このイライラが少なくなったことだ。イライラすることなんて、探そうとすれば幾らでもあるし、イライラしないことは、探しても探しても、なかなか見つからない。

そもそも、名前や、国籍や、言語環境や、容姿といった、無条件に提示された『生まれつきの条件』の前では、それをいったん受け入れるしかないのだ。ノるにしろ、ソるにしろ、まずはそこからスタートするしかない。

それ以降も、ぼくたちは、受け入れにくい現実を受け入れてきたはずだ。不運、引き弱、期待値割れ。誰かの嘘。果たされない約束。現実。ぼくたちの前にどこまでも広がる嫌な現実。

しかし、どうしても受け入れられないこともある。ぼくの場合、それはどうやら、ドラえもんの声らしい。

は?

まあ、聞いて欲しい。

40年近くも生きていると、たいていのことは、時間とともに、「まあ、そんなもんだろうな」と思えるようになるものだ。これまでの人生で、何人もの親族、知人、友人を見送ってきた。大好きだったスロット。3号機も4号機も、多くの5号機も、ホールから姿を消した。敬愛する文化人、著名人も鬼籍に入ってしまった。聞き慣れたアニメの声優が何人も交替した。悲しみは、そのうちに、慣れという喪服を着て、日常へと戻ってくるものだ。

しかし、ことドラえもんだけは、慣れるということがない。

これはどういうことなんだろう? と考えていて、思い当たったのは、大山のぶ代のドラえもんこそが、ぼくにとっての神様だった、という仮説である。

Q.これ、何の話ですかね?

A.「書くこと、賭けること」ですね。

神様。こんなところにいたのですね。

自分にまったく関係のない神を信じられるほど、人間の思考は柔軟ではない。こと信仰に関しては、パチ屋のような三店方式ではダメで、直取引がどうしても必要なのだ。

自分たちがどのように生まれてきたかを、この国で初めて公に書式化したのが、古事記という書物だった。

古事記を読む人(聞く人)は、そうか、自分たちは、このお話に出てくる神々の子孫なんだ、と思ったはずである。

「ワイが今、ここにいることは、昔、昔、はるか昔にいた、誰かのおかげなんだなあ」

おそらく、世界中の宗教のドグマ(教義)の裏には、こんな意味合いが含まれているはずだ。

ぼくの信仰の根幹には、ドラえもんがいる。つまり、ぼくという存在は、大山のぶ代のドラえもんによって、担保されている。だからこそ、ドラえもんの声優交替には、ジャイアントインパクトに対するセカンドインパクト、教祖の交代、あるいは教義が書き換わってしまったくらいの衝撃があって(のび太、ジャイアン、スネオの声優交替には何も思わなかった)、それがいつまでも収まらないのである。

では、ぼくが物語からインストールした神、コードネーム「ドラえもん」とは、一体全体、どんな神なのだろうか?

ドラえもんは、何をしてもさえない少年「のび太」くんを、救うために未来からやって来た救世主だ。

のび太くんは、ありとあらゆる難題を、ドラえもんの持つ未来の「道具」で解決しようとして、その試みのほとんどは、失敗に終わる。

のび太くんの才能が最大化するのは、彼にとってのハレの舞台、大長編ドラえもんという「映画」の中だろう。彼は追い込まれた状況下で、道具の使い方を再「創出」し、友を思いやる「優しさ」と、道具に頼らない「勇気」で、奇跡を起こす。

正直なところ、ぼくはのび太くんに好ましくない思いを抱いてきたように思う。

さえない人生の中で、成功にいたるただ一本の道を、「四次元ポケット」のおかげで掴み取った、超絶ヒキ強野郎やんけ、と。

そうはいっても、映画の中ののび太くんは、有無を言わせないほどの主人公ぶりを発揮した。そう、彼こそは、ドラえもんという神に選ばれたただ一人の子供であるのだ、と、見るものをうなずかせ、ドラえもんに選ばれなかったぼくら、という客観的な事実を棚上げするほどのスペクタクルを見せてくれた。だからこの感情は、端的に嫉妬なのだ。

現実的な問題として、ぼくの勉強机の中から青いロボットが出てきたとして、ぼくはのび太くんほどに、うまく「ドラえもん」という物語を立ち上げられただろうか?

無理だ。

ぼくは0点を取ったことがなかったし、日常的に誰かに暴力で屈服させられ、涙を流して家に逃げ帰って来たこともなかった。どちらかというと、ジャイアニズムに親和性があった節さえある。

そんなぼくも、年齢の上で大人になり、パチ屋に行くと、0点ばかりで、いつも泣かされて帰ってくる大人のひとりになってしまっていた。

ぼくの前に現れたのは、青い猫型ロボットではなくて、青写真としての、「期待値」だった。

そうだったのか。ドラえもん……
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