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今から小説を書こうと思うのだけど、と、その前に。

ぼくは、文章を書くという生活を、かれこれ11年ほど続けている。まあ、ある種のベンゾーさんですね。ベンゾーさんというのは、牛乳瓶の底のようなメガネをかけて、大学受験のための勉強をしているという、キテレツ大百科というマンガ/アニメに出てくる、ワナビー(途中にいる人)の象徴的キャラクターです。

寿a.k.a.ベンゾーさん。仕事をクビになって、心機一転、よし、これから十年間は、小説を書こうと決めたのでした。何で10年かというと、幾人もの先人が、10年やれば何とかなる(可能性がある)と言うからだった。たとえば、英語では、10年のことをディケイドという。独立した単語な以上、その年月には、何かしらの意味があるのだ。たぶん。

たとえば、吉本隆明さんは、どんな仕事でも、10年間、毎日休まずに続けたら、必ずいっちょまえになれる、と言った。

作家になりたいなら作家に、靴屋になりたいなら靴屋に、それでめしを食っていけるようになれる。休んではいけない。とにかく毎日、作家であるなら、机に向かって、数文字でもいいから書くことが重要である。実際に、これを実行して、いっちょまえになれないようだったら、おれの首をやるよ

この10年というもの、文章を一文字も書かず、小説のことを一瞬も考えずという日は一日たりともなかった。そうして10年が経って、ぼくはいっちょまえになったのだろうか? ……いや、いっちょまえになりませんでしたよ? でも、吉本隆明さんは、2012年に、亡くなってしまった。それに、何かを信じ、実行したのは、ぼくで、責任はすべて自分にあるわけで、文句を言ったところでどうにかなるものでもない。

で、とりあえず、スネた。

ぼくは、トンガリや、スネオのような、三角形的にトガり狂うキャラクターのようにスネてみた。2018年6月。立ち上げ以来、一日も欠かさずに更新してきたブログを更新せず、ワールドカップばかり見ていた。7月はスロットばかり打っていた。50万9500円勝った。8月に何をしていたのかはぜんぜん覚えていないが、収支表を見ると、月トータルで7500円負けという失態をおかしている。まあ、平均25万勝ちならいいか、と思ったかどうかは定かではないが、再び文章を書きはじめた。9月のことだったと思う。

ぼくはずっと、三人称というのが、うまく書けなかった。それがずっと、ノドに刺さった小骨的に、ぼくの呼吸を妨げていた。が、さっきぼくは、吉本隆明という三人称をすらすらと書いていたではないか。そう、引用という形なら書けるのだ。それは、吉本隆明が、現実に生きていた知の巨人であり、詩人であり、批評家であった吉本隆明さんの言葉だから、文章にするにあたって、無理がないのだ。

が、たとえば、橋本ナニナニさんという人がいたとして、橋本ナニナニさんとは、もちろん仮名であって、その橋本ナニナニさんが、箸を使って、そばを食べた、という文章を書くことは、嘘やんけ、と思ってしまうのだ。しらけるというか。

橋本ナニナニさんは、空を飛んだ。という文章を書こうとしても、(ウソつけボケ)という心の声が、橋本ナニナニさんについての文章を許してくれない。それでも無理をして、リアリズムを装って、橋本ナニナニさんは、スロットを打って、生計を立てている、ミソジニー(女性嫌い)の、三十路ニートである。と書いても、何だか、ノリきれない。どうして、ノリきれないんだ? とずっと考えていたのだけど、考えれば、考えるほど、ノドに刺さった小骨が大きくなるような感じがして、苦しいので、忘れようとしたり、別の角度から考えようとしたり、折に触れて思い出したりしながら、10年が経ってしまった。

ここでひとつ、大前提に立ち返って、文章を書くというのは、どういうことか? ということを考えてみよう。ぼくは、自己紹介だと思う。ぼくという人間は、こうこう、こういう、人間なのであります、ということを、どうにかして伝えるために、文章というのはあると考えている。

文章を書こうとする人間は、だから文体というのを、中学生がニキビを気にするがごとくに気にしてしまう。つまり、文章を書こうとする人間は、中学生なのだ。……それは言いすぎかもしれないので、中学生的なところがある、くらいにしておこう。自分という人間を、少しでもマシな生き物に見てもらいたいという意味で。

と、なれば、どういう文体がよくて、どういう文体がダメかは見えてくるだろう。

「おまえのものは、おれのもの。おれのものも、おれのもの」という自己紹介をする人の文章を、ぼくは読みたくない。

が、このジャイアニズムと言われる思想。これは実際、一人称という視点が持つ、特性の一つの特徴でもあるのだ。困ったことに。

同時に、人間は不思議なもので、ジャイアンの自分勝手は嫌でも、のび太の自分勝手は、許容できる、というところがある。どうしてだろう? ジャイアンにあって、のび太くんにないもの。あるいは、のび太くんにあって、ジャイアンにないもの。

そうか、ぼくたちは、のび太くんに自分を、ジャイアンに他者を重ねているのかもしれない。だから、ジャイアンが得するのは何だか納得できないのに、のび太くんが得することに関しては、すんなり受け入れるのだ。

……あれ? 今、何か、見えなかった?

ぼくは、おそるおそる、見えかかったものを、文章にしてみることにした。

一人称。それは、自分とそれ以外を分ける線であり、都合のいいもの、悪いもの、自分とそれ以外の比率、交換率を歪めるシステムのことだ。

ふむふむ。一人称は、非等価交換なのね。非、等価交換というのは、誰かが得をするシステムのことだ。この場合、得をしているのは「ぼく」だ。じゃあ、三人称は?

……

どうしてぼくが、橋本ナニナニさんのことを書くと、しらけるのか、ノリきれないのかというと、ぼくと橋本ナニナニさんの間に、交換率の壁があるからだ。のび太くんとジャイアンの間に壁があるように。

より具体的に言うと、ぼくは、橋本ナニナニさんという人のことを、自分のことのようには、考えられないということだ。

ぼくは、文章を書く人になりたい。が、その気持ちはそのままでは、ジャイアニズムの自己主張にしかならない。そんな当たり前のことを言う人間の書くものを読みたい人なんていない。どれだけきれいなジャイアンでも、他者は他者なのだ。

ぼくのしたいことは、文章を書くことで、したいことをしている時点で、利益を得ているじゃないか。これ以上、何を得しようとしているんだ?

「おれのものは、おれのもの。おまえのものも、おれのもの」

それを、やめよう。ぼくは、大好きな文章を書く。橋本ナニナニさんは、言わずにいられないことを言う。そのようなフェアなトレード(=等価交換性)が構築できれば、少なくとも、橋本ナニナニさんは、その文章にノレるだろう。橋本ナニナニさんをノラすことができれば、ぼくの目的は達したも同然だ。

それは、橋本ナニナニさんであっても、誰であっても、同じだろう。彼の、彼女の、声に耳をすます。彼が、彼女が、これは自分の物語だ、と思う。それでこそ等価交換ではないか。それこそが、いっちょまえの文章ではないか。そのとき、ノドに刺さった小骨は、溶けているのではないか。

よし。そこから出発しよう。
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