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 神様はいるだろうか?

 結論としては、いる。色々考えたが、僕がこうして生きている以上、たぶんいる。
 ただ、だからといって、自分が優遇されるわけではない。神は結果というものに、何の興味も持っていない。スロットでも、パチンコでも、競馬でも恋愛でも何でもいいが、神がついているからイケルという考えは、自分を、人間を誤解しているうえに、神を誤解している。
 彼でも彼女でもない。あれでもこれでもない。ヒゲがはえているわけでも、杖を持っているわけでも、光をまとっているわけでもない。神は見えない。触れることも近づくことも許されない。ただ、言葉はある。そう、神は常に言葉とともにあった。

 神の名を、確率という。


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 高木良太が東京都江戸川区西葛西に生まれたのも、もちろん神様がお決めになったことだ。東京23区でいえば、中央区銀座に生まれるよりも、品川区白金台に生まれるよりも、確率の分母ははるかに大きい。父は大手町に本社のある商社に勤めるサラリーマン、専業主婦の母、4歳下に悠太という弟。分譲マンション。カローラフィールダー。何不自由もない、幸福で平凡な家庭で小僧は育ったのだった。

 確率の低いものを、人間は総じて運と呼ぶ。その運の中で、自分にとって都合のよいものを幸運、都合の悪いものを不運と呼んで区別するが、運不運を選択する権利は人間には与えられていない。

 生を授かったことは、神の恩寵である。が、その恩寵を受け取ったことで、同時に発生するものがある。そう、神がいるということは、悪魔もいるのだ。悪魔が伸ばす手も、相手を選別していない。良い人間だろうと、悪い人間だろうと、関係ない。人種も性別も住む場所も問わない。というかどうでもいい。

 悪魔の名を、可能性という。


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 高木家の不運は、父親の転勤命令から始まった。転勤自体は、特に悪い話ではなかった。手当ても充分に出るし、昇進に必要なスキルも経験も得られる。が、自分の意思で住む場所を決められないことに、父親は葛藤した。

 当時、流行っていた言葉のひとつに、デザインというものがあった。自分の人生を自分でデザインしたい。それは、優しい奥さんと、二人の男子、安定した職を持ち、マンションも車も購入した小僧の父親の、プライドだったのかもしれない。あるいは、会社にノーを言いたいという、中学生じみた願望があったのかもしれない。小僧には、父親の考えを想像することしかできないが、ともあれ、父親は脱サラを決意し、そのことを伝え聞いた母親は、激怒した。

 父親と母親の言い争いを見たのは初めてだった。が、その諍いも長くは続かなかった。母親が父親の挑戦を応援することになったのか、それとも、父親が脱サラを思いとどまったのかは、小僧にはわからない。翌日、買い物に向かう途中の母親と小僧、小僧の弟のもとに、マイクロバスが突っ込んできたからだ。どういうわけか、小僧は軽傷で済んだのだが、小僧の弟は即死、母親は病院に搬送された後で間もなく亡くなったという。

 人生のデザインはどこへやら、父親は、家にこもって酒におぼれるようになった。職場は、辞表を待たずして解雇された。一ヶ月半後、父親は寝室の棚を使って首を吊った。これらの不運について、小僧は何も関与していない。何一つ関与していないにも関わらず、個別の不運がすべて彼の身に降り注いだ。それが、高木良太という15歳の少年に起きたことだった。

 小僧は広島県にある父方の実家にひきとられ、現地の高校に通った。しかし、人間関係にも、その他すべての高校生的な活動にも、なじめなかった。17歳。高校3年生の年の7月、良太は高校を辞めた。そしてひと夏を部屋の中で閉じこもって過ごした。思うように過ぎていかない時間に耐えかねて、良太はネットの中に居場所を求めた。ネットの中には、時間をうまく過ごすことのできない人間のためのコンテンツがたくさんあった。ここしかないという思いで、小僧はひたすらモニタの向こうの世界を覗いた。

 薄ぼんやりとした2ヶ月が経過した頃、いつものようにネットを巡回していると、掲示板にあるスレッドが立っていた。

 歩いてると、ひとりじゃないんだ、ということがわかってきた。もちろん、ひとりで歩いてるんや。でも、ひとりじゃない。何ていうんかな、抱きしめられてるみたいな? 大きなもの、暖かいもの、それらに包まれている自分を常に感じてた。それが同行二人の意味であるとまでは言わないし、誰でも行けば救われるっていうものではないのかもしれないし、たぶん勘違いだろうし、ネットに引きこもるみたいに遍路に依存する「乞食遍路」みたいなネガティブな話も聞いたけど、それでもワイは幸せだった。てか、救われた。少なくとも今死にたいとは思わないもの

 そこには、お遍路で人生が変わったと言う人間の感謝の気持ちが綴られていた。小僧は、いつの間にか拳を握り締めていた。これだ、と思う。心配する叔母を説得し、お年玉貯金をおろし、準備を整え(それは充分な準備とは言えなかったが)、晴天に恵まれた10月某日、小僧は四国に向けて歩いて出発したのだった。


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 小僧が寝てしまった後の病室を出て、ご飯を食べ、パチ屋を覗いた後でたけさんの家に戻ると、たけさんと越智さんが酒を飲んでいた。
「おーい、師匠」酒が入った人特有のろれつのあやしい喋り方でたけさんが言った。「この子、占い師さんなんやって。師匠も占ってくれるってよ」
 僕は首を振った。
「いいです」
「何でや。わしもやってもらったんやけど、すごい当たるぞ」
「当たって、何かいいことがあるんですか?」僕は聞いた。
「見ず知らずの人の情報がわかるんや。すごいやん」
「俺、占いとか信じていないので、申し訳ないですけど」
「頭かてえなあ。困ったときの占いババって言うだろ」
「ババじゃないです」越智さんが冷静な口調で訂正する。「師匠さん、占いっていうのはですね、霊媒的であるとか、マジシャンのトリック的だとか勘違いされることが多いですけど、本来は客観性のことなんです。自らを一人称で考えてしまう人間という存在を、三人称で捉えようとするくらいのものなんですよ。当たるも八卦当たらぬも八卦というのはそういうことです。ですから、一人称的に行き詰っていない人には、そもそも無用のものです。ですが、もし、今、師匠さんが一人称的に悩んでいるのだとしたら、一助になる可能性はあると思いますよ」
「……」
「だまされたと思ってやってもらえや」褒めているのだか、貶しているのだかわからない言い方で言うと、たけさんが僕の肩を叩いた。
「……占いって、どういうことをするんですか?」
「私の質問に答えてください。答えたくない質問には無言でけっこうです」
「それなら」
「では、はじめさせていただきます。まずは、師匠さんがこの世界で最も嫌悪しているものについて、教えてください」
「オカルトですかね」
「オカルトというと?」
「誰かにとって都合のいい話の総称です」占い全般に対して喧嘩を売っているみたいだな、と思いつつも言った。
「都合のいい話が嫌いということですか? それとも、都合のいい話を信じる人が嫌いなのですか」
 ……
「誰にとって都合の良いことが嫌なのですか?」
 ……
「たとえば、師匠さんにとって都合のいいことが起きたら、師匠さんは、それを拒否するのですか?」
 ……
「越智さんよ、もうちょい優しくしてくれや。こいつ、こう見えてナイーブな男やけん」眠そうなたけさんは、眠そうな声でそう言った。
「師匠さんを責めているわけではありませんよ」越智さんは表情を崩さずに言った。「その、オカルトが嫌いということを、これまでの人生に絡めて、師匠さんなりに振り返ることはできますか? 一人称で」
 俺が一番嫌悪しているもののことを、これまでの人生に絡めて、それも、一人称で振り返る? どうしてそんな面倒なことをしなければいけないんだ? 助け舟を出してもらおうとたけさんの方を向いたが、たけさんはすでに眠っていた。

 ……振り返れば、僕には選択肢が二つあったような気がする。
 生きるか、死ぬか。
「僕は、生きることを選択しました」と言った。「生きることを選択するために、オカルトみたいなものと決別する必要があったんです」


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 小僧が退院する前日、広島から叔母さんがやって来た。小僧は眠っていて、たけさんたちは食事をしに外出中で、病室には僕しかいなかった。僕は会釈して、僕も遍路をしていたという体で、スロットというワードなしでなりゆきを説明した。
「それはご迷惑をおかけしました」と言って、小僧の叔母さんは頭を下げた。
 目を覚ました小僧が、自分の部屋でうたた寝をしていたというような気安い声で「叔母さん? どうしたの?」と言った。
「どうしたのじゃないでしょ。良太。大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。大丈夫」
「あなた、明日、退院なのよね。叔母さん、駅前のホテルに今日は泊まるから、一緒に帰りましょう。ね?」
 小僧は首を横に振った。
「ごめん。まだ帰れない」
「どうして?」
「やることがあるんだ」
「やることがあるって、そんな状態で、どうやって?」
「遍路をして、病気が治ったり、夢が叶った人もいる。おれの目だって治るかもしれない」
「あなた、何を言ってるの?」
「冗談だよ」小僧は笑った。「心配してくれてありがとう。でも、今は帰れない。ごめんなさい」
「……」叔母さんは絶句していた。矛先を変えようと僕の顔を見たが、言葉が出てこなかったらしく、開きかけた口を再び閉じた。
「あなた、お金はどうしてるの?」
「こっちに来てから、色々な人に助けてもらって、持ってきたお金を全然使ってないんだ。だから、大丈夫」
「……みんな心配してるのよ。叔父さんも。チャコちゃんも、アヤさんも、みんな」
「ありがとう。感謝してます」
「わかりました。その代わり、ふたつ条件をつけます。二日に一回は必ず電話をすること。それから、二度と誰かと喧嘩しないこと」
「わかった。約束する」
 叔母さんはうなずき、「しっかりご飯も食べるのよ」そう言って、最後に僕に一礼し、病室を出て行った。
「何かすいません」と小僧は言った。小僧の声は震えていた。泣いているのかもしれなかった。窓の外の太陽が傾いて、越智さんが数日前に持ってきた水仙の影を引き伸ばしていた。


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 退院祝いということで、居酒屋「風」で飲むことになった。小僧は、病院からつけてきた白い眼帯の上に、たけさんが退院祝いと言って渡したキャプテンハーロックのような黒い眼帯をつけ、「どうすか? どうすか?」と言った。
「かっこええ」贈り主であるたけさんが満足そうにうなずいた。
「小僧くん退院おめでとう」そう言って、りんぼさんは小僧に紙袋を手渡した。
「何ですか?」小僧が聞くと、「ブルーベリー」とりんぼさんが言った。
「ありがとうございます」
 そして、乾杯。さすがに酒を飲ませるのはまずい、という大人たちの意見で、小僧はウーロン茶の入ったジョッキを掲げた。
「一杯くらいダメですか?」小僧が言うも、「ダメ」たけさんがはねつける。
「たけさんね、今は楽しそうな顔してるけど、めちゃくちゃ心配してたんだよ」
 小僧は「すいません」と言って、頭を下げた。
 そんな小僧に気を遣ってか、当たり障りのない話が続いた。しかしそれも長くは続かず、「わしはおまえが心配で、心配で、何やったらそのガキらを殺したろうか思ったくらいで……おまえが元気になってよかった。本当によかった」そう言って、たけさんは泣き出した。
「小僧くん、やり返そうとは思わない?」りんぼさんは、たけさんとは対照的な表情で言った。
「いえ」小僧は首を振る。
 ガラガラと昭和的な音を立てて店の引き戸が開いて誰かが入ってきた。
「遅れちゃいました」息せき切らした越智さんは、「小僧くん、退院おめでとうございます」と言って、小僧に手さげ袋を手渡した。
「ありがとうございます。何ですか?」
「いつも寒そうな格好してるので、マフラーです」
 小僧が何かをもらうたびに、何ですか? と聞くのは、何をもらっているのかを片目で確認するのが大変だからだろう。そう思うと、悲しい気持ちになった。
「おれが悪いのに、何か、色々、すいません」
 そう言うと、小僧は立ち上がり、師匠いただきますと言って、僕の前にあったビールのジョッキを手に取った。
「おい、師匠の了解を取る前に勝手に飲み始める弟子がいるか」と言って、たけさんが苦い顔をした。


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 ひとしきり飲んだ後で、たけさんの家で飲み直すことになった。越智さんは、明日仕事なので、と帰っていった。僕ちょっと用事があるから、遅れて行くね、と言ったりんぼさんが、数十分後、誰かを連れて戻って来た。
「……」
 少女マンガ風の目が描かれたアイマスクをつけた2人は、テレビの企画で拉致されるお笑い芸人のようだった。
「座って」りんぼさんの声に、ふたりはおずおずと従った。アイマスクで目を隠されていたが、それはキャッチャーピアスとドラゴン坊主だった。
「君たちは復讐はしたくないと言ったけど、それでも、けじめは必要だ」ふたりの顔が、アイマスクの向こうでピクピクと痙攣しているのが見て取れた。
 ふいにたけさんが立ち上がり、台所から出刃包丁とまな板を持ってきた。
「自分らそれで指つめえ」
「ダメだよ。そんなんじゃ」りんぼさんが首を振った。「小指なんかもらっても、彼らは何も報われない」
 僕が吸っていたタバコを取り上げて、りんぼさんはキャッチャーの耳元に近づけた。
「ヒ」熱を感じたのか、キャッチャーマスクの口から、言葉ならぬものが漏れる。
「キミたちは、ひとりの人間のこれからを、めちゃくちゃにしたんだ」りんぼさんは、特に感情をこめることなく、淡々と言った。「どうやってけじめをつける?」
「でも、あれは、あのガキが飛び込んできて……」
「凶器の凶は、わざわいをもたらすという意味だ。世の中には知らなかったじゃ済まないことがあるんだよ。キミはいくつ?」
「……21です」
「視覚はね、人間の感覚の8割を占めると言われてる。小僧くんの場合、反対の目がわずかだけど見えるから、失われた感覚は6割ってとこかな。そうだな、キミのこれからの人生の6割で手を打とうか。金銭で解決したいなら、少し前に一般的なサラリーマンが22歳から60歳で稼ぐと言われていた3億の6割、1億8000万円。あるいは、肉体的苦痛が欲しいというなら、利き手と片足を切断するか。どっちがいい?」
「……」
「親に泣きついてもいいよ。地元の先輩みたいな人間を頼ってもいい。警察にかけこむのもいい。キミが何をしようが、キミの人生の6割はもらう」
「……」キャッチャーは何も言い返せずに震えていた。
「さてと、次はお友だちの番」
「何でおれが」というドラゴン坊主の声を無視し、りんぼさんは言った。
「キミの罪は、純粋な気持ちで遍路をしようとしていた少年に声をかけたこと。金を巻き上げたこと。危害を加えたこと。キミが持っていたのは警棒だから、その警棒を使って、両手か、両足の甲を粉砕骨折させることで罪を償わせてあげる。好きな方を選びなさい。歩けないのは精神的にくるものがあるから、オススメは手かな」
 人の顔が青ざめていく様を、僕は初めて見た。にもかかわらず、2人は半笑いを浮かべていた。
「りんぼさん、もういいですよ」そう言ったのは小僧だった。「二度と遍路をしようとする人をだましたり、金を盗んだりしなければ、おれはいいです」
「そう?」りんぼさんは口角を片方だけ上げて笑った。「じゃあ、いっそのこと、このままの格好で海に捨てちゃおうか」
「すいませんでした」ドラゴン坊主が言った。
「本当にすいませんでした」キャッチャーが言った。
「ねえ、キミたちは誰に謝っているの?」
「傷つけてしまったおふたりにです」キャッチャーは叫ぶように言った。
「キミたちの名前、本籍、家族構成、交友関係は把握してるからね」りんぼさんは低い声で、つぶやくように言った。
「……」
「……」

 ややあって、りんぼさんが笑いながら戻ってきた。
「たけさんダメだよ。何だよ。指つめえって。ヤクザ映画じゃないんだからさ」
「かっこよかったろうが」たけさんは若干照れながら言った。
「僕は笑いをこらえるのに必死だったよ」
「笑いこらえてたやつがよう言うわ」
「たけさん、りんぼさん」小僧は立ち上がって言った。「すいませんでした。おれが未熟なばっかりに、ご迷惑をおかけしました」
「困ったなあ」りんぼさんは頭をかいた。「僕は本気で彼らから金を取ろうと思っていたのだけど、君が余計なことを言うせいで、アテが外れちゃったな。小僧くんのせいだからね」
「そんなあ」と小僧が言うと、たけさんとりんぼさんが顔を見合わせて笑った。


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 小僧を先に寝かした後、今度こそ飲み直すことになった。僕は芋焼酎を片手に、たけさんとりんぼさんの会話を聞くでもなく聞いていた。
「なあ、りんぼん、死後の世界はあるんかな」
「ないでしょ」
「何でないって言い切れるんや。おまえ死んだことあるんか」
「あるって言ったら、死後の世界があることになるじゃない」
「それもそうやな」
「そうだよ」
「あー、天寿を全うできたらええなあ」
「たけさんはどんな死に方がいい?」
「完璧な一本グソみたいにツルンと向こうの世界には行けんもんか」
「たけさんの天寿がのたれ死にだったらどうするの?」
「それは嫌やなあ」
「変えられないから天寿って言うんじゃないの」
 たけさんの希望的観測を、りんぼさんがにこやかに否定する。僕は二人のやり取りを聞きつつも、越智さんの占いを思い出していた。

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「師匠さんは、このままだと死んでしまいますね」
 僕の一人称の来歴をひとしきり聞いた越智さんは、目を閉じて、意味ありげに一息つき、それから目を開けてそう言った。
「このままということは、このままじゃない方法があるんですか?」僕は冗談のつもりで言った。「運気を上げる壷とかですか」
「壷屋さんを紹介してもいいですが、100万単位のお金が必要になりますよ」
「100万円の壷? それって有名な人が焼いているとかそういうことですか?」
「いえ。師匠さんは、プラセボ効果をご存知ですよね。ラッキチャームの効果を最大化するためには、三つの方法があるとされています。ひとつが、権威。神社仏閣のお守りや、有名人の私物等です。もうひとつは、馬鹿みたいに値の張るもの。金額=価値という考え方ですね。最後が、思い入れ。戦地に赴く兵士が、婚約者や恋人の下の毛を持参するというような」
「でもそれ、気のせいみたいなもんですよね」
「そうですね。気のせいを完全否定する人にはほとんど効き目はありません」
「あの」と僕は言った。「越智さんは、何の根拠があって、そんなことが言えるんですか?」
「師匠さんの言葉で言えば、期待値ということになるでしょうか」
「数字という裏づけのない期待値はないと思うんですけど」
「私は、何か基準のようなものを参照して言っているわけじゃないんです。師匠さんの認識の中にある一番大きい問題を言ってるだけなんです」
「タバコ吸ってもいいですか?」と聞いて、火をつけた。
 ジリジリと音を立てて吸い込んだ煙は、肺細胞を通して瞬時に脳に送られる。ふう、と有害物質を含んでいるらしい煙を吐き出した。その男は苛立っていた。その男=僕。三人称的に自分の行為を見つめてはみたものの、自意識からは離れられそうになかった。
「さっき越智さんは、占いは一人称を三人称に置き換えるくらいのことって言ってましたよね」
「はい」
「俺、死ぬんですか?」
「このままではそうなってしまうと、師匠さんの認識が恐れています」
「都合の悪い話って、都合のいい話と同じくらい有害だと思うんですよ」僕は、有害であるとされる白い煙を吐き出した。「占いって、未来に対する不安があるから需要があるんですよね」
「そうですね」越智さんはうなずいた。
「占い師の成立条件を考えると、デパートの占いコーナーみたいなところで座っているよりも、不安を煽る方が商売としてはやりやすいですよね」
「そうでしょうね」
「死ぬなんて、越智さんに言われるまで思ってもみなかった」僕はそう言って、灰皿にタバコを押し当て、もみ消した。「俺の潜在意識が死を恐れているのだとしても、そんなの、すべての人間が死を恐れていますよね。人の生き死にを正確に予想できる人間はいない。そんな能力が人間に備わっているとはとても思えない。もし、俺が近日中に死ぬのだとしたら、一番確率が高いのは、俺の死を予言した人物に殺されることですよ」
「そうですか」静かな声で越智さんは言った。「お騒がせしてすいませんでした。私、帰ります」
 越智さんがいなくなった後の部屋では、たけさんのいびきだけが響いていた。


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「師匠?」という言葉で我に返った。
 目の前にはりんぼさんがいて、僕に芋焼酎を注いでくれようとしていた。どうやら、たけさんは眠ってしまったらしい。
「物思いに耽ってたけど」りんぼさんは言う。
「あの、りんぼさん。越智さんって、どういう人なんですか?」
 果歩ちゃんは、天才占い師だよ。そう言って、りんぼさんはにっこりと笑った。
「他人の未来が見える能力なんてないですよ」
「どうして師匠はそう言い切れるの?」
「論理的推論です。さっき、りんぼさんが死後の世界がないと言ってたのと同じだと思うんですけど。もしそんな力がある人間が一定数いるなら、民主主義とか合議制みたいな世界にはなってませんよね。計算機も気象衛星も必要なくなってしまう」
「革命はテレビに映らない。超能力者は、みんな謙虚なんだよ」りんぼさんはそう言って笑った。
「越智さんに、このままだと死ぬって言われました」
「へえ」りんぼさんはいかにも興味があるというように体を乗り出した。「それで、師匠は何て返したの?」
「もし、俺が死ぬことを知っている人間がいるとしたら、それは俺のことを殺そうとしている人間だけだ、みたいことですけど」
「くっくっく」とりんぼさんは笑った。「実に、キミらしい」
「というか今、何かの病気にかかってるとかじゃない限り、死ぬって言われたところで、どうしようもないじゃないですか」
「ねえ師匠。可能性と蓋然性は違う。キミは前そんなことを言ってたよね」
「そんな話しましたっけ?」
「うん。『死ぬかもしれない』という可能性は、誰に対しても言えるのに対し、『死ぬ確率が高い』というような蓋然性は、特定の原因がなければ言えない。そうだよね?」
「そうですね」
「スロットのようなギャンブルでは、可能性としては、誰にでも勝つチャンスが用意されている。だけど、その可能性こそが、パチンコ店にとっての商品で、長期的に見れば客が勝つ確率、蓋然性はほとんどない。にもかかわらず、師匠みたいな人間が勝ち越してるのは、可能性には見向きもせず、勝ち越せる蓋然性の高い状態を、『期待値』と呼んで追いかけるから。僕の理解は合ってるかな?」
「はい」
「でも、それは師匠が凡人だから取れる戦略なんだよ」りんぼさんは優しい声で言った。「あれだよ。凡人ってのは、超能力みたいなものを持たない普通の人間という意味ね」
「凡人というのはわかりきってるので」僕はうなずいた。
「果歩ちゃんにとって、可能性も蓋然性もないんだ」
「……どういうことですか?」


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「師匠」という声で目が覚めた。あれ? りんぼさんは? 昨日も飲みすぎてしまったのか?
 気を取り直して、「おはよう」と言おうとすると、「おはようございます、スロット、師匠スロット行きましょう」と、小僧は早口言葉みたいな勢いで言った。
「……あのさ、小僧さ、やっぱ高校は出といた方がいいと思うんだ」僕は、小僧が入院しているときから言おうと思っていたことを口にした。
「師匠は高校を卒業して、何か良かったことはありましたか?」
「良い悪いじゃなくて、行こうと思えば今からだって大学に行けるし、バイトをするにしても中卒よりは探しやすいし、いざというときの心構えというか、可能性の幅が違うと思う」
「学歴って、目に見える価値基準ってことですよね?」
「まあ」
「おれ、そういう世界とサヨナラしたので、必要ないです」
「後悔しない?」
「後悔は全部病院のベッドに置いてきました」
 そこまで言われてしまうと、僕としてはもう何も言えなかった。これでいいのだろうか? と思いながらも、パチ屋に向かった。そうだ。以前忘れたコインのことをフロントで言うと、レシートとして返してくれた。そのレシートを会員カードに入れてもらい、謝辞を述べ、小僧と一緒に期待値を追った。昼食は、うどん。夜まで打って店を出る。
 冷たい風が、首元から忍び込んでくる。ヒキ負けたバジ絆を思いながら、ブルゾンのジッパーを上げ、タバコに火をつけ、煙を吐いた。交換所から出てきた小僧を待って歩き出す。
 街灯もまばらな道を歩いていくと、曲がり角の向こうに二人の男が立っていた。背の高い坊主頭、小太りのロン毛。
 身構えた僕と小僧の前で、小僧にナイフを突き立てた小太りの方がひざを折り、土下座を始めた。
「本当にすいませんでした」
「……」
「これ、少ないですけど、気持ちです」キャッチャーは、路上にひざをついたままの姿勢で、ポケットから取り出した封筒を小僧に渡そうとした。
「……いや、いいです」小僧が振り絞るような声でそう言った。
「受け取ってください。この通りです」キャッチャーは賞状を渡す人のような姿勢でくりかえす。
「……」
「お願いします」
「じゃあ、受け取りますから、その代わり、今から一緒に飲みませんか?」
「……はい?」


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「まあ飲めや」たけさんが言うと、ぽっちゃりロン毛と首元にタトゥの入った坊主の二人は背筋を伸ばして湯飲みを構え、パックから芋焼酎が落ちてくるのを待った。
 ……焼酎はなかなか落ちてこなかった。
「もうないやん」と言って、たけさんはパックの焼酎を振った。「ちょっとお前ら、買ってきてくれるか?」
 二人が立ち上がろうとするのを制したのはりんぼさんだった。
「僕が行くよ。キミたちは、たけさんの説教を聞く義務があるだろ。師匠。行こう」
 ここにいるよりはマシだろうと、たけさんからお金を受け取って、外に出た。
「うーん、いい夜だね」りんぼさんが夜の空気をたっぷりと吸い込んで言う。「ねえ、師匠?」
「……りんぼさんは、あの二人と一緒に飲んでいて、何も思わないんですか?」
「何もって?」
「不快、というか」
「小僧くんが許しているのだから、もういいんじゃないの? 師匠は違うの?」
「……」
「じゃあ、どうすればキミの気は済むのかな。彼らの目をくりぬいちゃう?」
「単純に、もう関わりたくないです」
「まあ、気持ちはわからないでもないけどさ、僕らみたいな日陰者はさ、嫌でも集わないといけないところがあるんだよ。弱いから、虚勢を張る。表を歩けないから、裏道を歩く。正攻法で勝てないから、ズルをしようとする。それらはすべて弱さだ。キミはその弱さを搾取して生きてきた。じゃない?」
「そうかもしれないですけど、嫌なものは嫌です」
「でもね、搾取の実感がある人間には、義務が発生するんだよ」
「何の義務ですか?」
「無私。あるいは奉仕。持ちつ持たれつなんだよ、この世界は」

 真夜中だろうが、日陰者だろうが、スロット打ちだろうが、コンビニは、日本全国同じ入店音で迎えてくれる。りんぼさんは、僕の持つカゴにリズムよく、1.8リットル入ったパックの芋焼酎、各種缶ビール、各種缶チューハイ、ビーフジャーキー、アタリメ、ポテトチップス、さけるチーズ、おにぎり、氷、アイス、と入れていく。いっぱいになった二つのカゴをレジに運び、おでんとスパイシーチキンを追加し、たけさんに渡された1万円札を店員に渡す。
「りんぼさんは、何かしてるんですか?」コンビニから出たところで聞いてみた。
「何って?」
「持ちつ持たれつってやつです」
「僕は、楽しもうとしているよ」
「楽しむ?」
「義務だと思ってるんだ。人生を楽しむことは」
「……あの、この間、越智さんの話をしてたと思うんですけど」
「うん」
「越智さんにとって、可能性も蓋然性もないって、あれ、どういうことですか?」
「そうだね。その話も同じだね」とりんぼさんは言った。「果歩ちゃんは、その優れた力を自分のためには使えない。ある意味それも、義務と言えるんじゃないかな」
 りんぼさんの言っていることの意味がよくわからなかったが、それ以上何を訊ねても、うん、うん、とうなずくだけで、りんぼさんは答えてくれなかった。

 レジ袋をかかえてたけさんの家に戻ると、待ちかねたという顔で、たけさんが「お帰り」と言った。
「ただいま」りんぼさんがそう言った途端、坊主とキャッチャーは、直立不動の姿勢を取った。
「鬱陶しいからおまえら座れ」たけさんが言う。「師匠、おまえも色々言いたいことはあるだろうが、とりあえず座って飲もうや」
 3つしかない湯飲みを、小僧とキャッチャーとドラゴンが持ち、たけさんは缶ビールを、りんぼさんと僕は氷結の缶を持って掲げた。
 無言で缶に口をつけた後で、僕は買ってきたものをレジ袋から出し、あるものは冷蔵庫に、あるものは冷凍庫に、と分別した。
「おい、沈黙は好かん。何か喋れ」たけさんはそう言うが、ドラゴンとキャッチャーは恐縮してしまって喋らない。
「師匠がね、キミたちと一緒の空間にいるのが嫌なんだって」りんぼさんがチクリ魔の子どもみたいに口をとがらして言った。
「すいませんでした」ドラゴンとキャッチャーは湯飲みを置き、神妙な面持ちで頭を下げる。
「そういえば、小僧くんの被害に関しては、僕が裁定して、小僧くんの許しを得たわけだけど、師匠に関しては、フォローできてなかったよね。そこで、僕から提案があるんだけど」
 ふたりは神妙な面持ちのまま、うなずいた。
「キミたちも、小僧くんと一緒に、師匠に弟子入りしたらどうだろう?」
「ええな、それ」と言って、たけさんが笑った。「おい、小僧。おまえ、兄弟子やぞ」
「兄弟子ですか」小僧はまんざらでもない表情で言った。
 よろしくお願いします、とキャッチャーとドラゴンが言った。僕はグビと氷結を飲んだ。

 ……は?


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 眠い。とてつもなく眠い。が、いびきのせいで、寝ついたと思っても起きてしまう。キャッチャー、ドラゴン、たけさんの三重奏。部屋がひとつ離れているというのに、すごい音量だ。小僧はそんな中でも、すやすや寝ている。

 僕はジーンズのポケットから耳栓を取り出し、装着した。音が消えてしまうわけではないが、不快成分が減っていく。パチ屋の必須アイテムをつけて目を閉じると、自分が今、パチ屋に入ろうとしているのか、それとも眠ろうとしているのか、判断がつかなくなってきた。

 パチ屋。この空間のどこかに宝があるのだ。そう、山村崇は、パチ屋で行うことを、宝探しだと思っている。三人称で語るとバカとしか言いようがないが、厳然たる事実だ。リセットや、設定という、店が用意するまき餌のような宝。ゲーム数や、天井付近の台という、客があきらめ置いていった夢のかけら。どれだけ取り繕ってみても、山村崇はその宝探しに依存している。パチンカス、スロニートと揶揄されて、なお。

 僕は、できればその宝を独り占めしたいと考えている。しかしそれは土台不可能な話だ。店は山村崇のために店を開けているわけでも、慈善事業をしているわけでもない。強引な行為は、排除の対象になる。だからできる限り、一般客のひんしゅくを買う行動をしない。山村崇は、自分と現実とを天秤にかけ、あるいは、感情と期待値を天秤にかけ、感情を犠牲にすることに決める。ギャンブルをしたければ、ギャンブルをしてはいけないのだ。こうして、僕は分裂する。


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 目が覚めると、カーテンの向こうが明るくなっていた。耳栓を取る。いびきはまだ響いている。しかしその音は、深夜のような勢いはなく、奏者も一人だった。生存競争に勝ったのは誰だろう? 僕は立ち上がり、ペットボトルの水を飲み、トイレに向かい、小水し、手を洗い、念入りに顔を洗い、歯を磨き、キッチンの前に散らばっていたゴミを拾った後で、ストレッチをした。
 そのうちに、小僧が起きてきた。
「おはようございます。師匠、早いですね」
「うん。おはよう」
「あの、パチ屋には、あの二人も連れてくんですよね?」
「なあ、小僧」
「はい?」
 俺は、あいつらを許せそうにないんだが、と言おうとした。が、小僧のキラキラした目の輝きを見ているうちに、そんな自分がとんでもなく未成熟な人間に思えてきた。
「……なあ、小僧、目、痛いか?」
「痛みはありますけど、何か、もう、この痛みが自分という気がするんですよねえ」
「自分に痛みを与えたやつを憎いとは思わない?」
「あの二人は、おれに痛みを与えたかったわけじゃないですよね。金が欲しかっただけで」
「そりゃそうだろうけど」
「師匠、おれは大丈夫ですよ」
 そんな目で俺を見ないでくれ。俺は、おまえみたいにできた人間じゃない。

 俺は……

 占いとは、自らを一人称で考えてしまう人間という存在を、三人称で捉えようとするくらいのものなんですよ、と越智さんは言った。

 一人称。それは、自分とそれ以外を分ける線であり、都合のいいもの、悪いもの、自分とそれ以外の比率、交換率を歪めるシステムのことだ。

 じゃあ、三人称は? 小僧も、ドラゴンも、キャッチャーも、山村崇も、三人称からすれば、距離が変わらない。そう、言うなれば、三人称は等価交換のようなシステムなのだ。
「師匠?」心配そうな顔で、小僧が僕の顔を見つめていた。
「なあ、小僧、あいつらの名前何ていうんだろうな」


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「タクマヒロシです」キャッチャーは名乗った。
「何て呼べばいいですか?」小僧が訊ねる。
「だいたい、タクマかヒロシって呼ばれてますかねえ」
「アクマやろ」ドラゴンタトゥが茶化すように言った。
「そんなん言うたらおまえは……」
 ドラゴンはキャッチャーの口を押さえ、イシガミヤマトです、と名乗った。
「何て呼ばれてたんやった?」タクマヒロシを名乗った男がニヤリと笑う。
「……地元では、ファングって呼ばれてました」
「アクマ? ファング?」
 ダサ、と思った後で、首を振った。ダサいというのは、三人称的な価値観ではない。それは、よくない。
「師匠さんは……あの、師匠さんって呼んでもいいですか?」キャッチャーが言う。
「いいよ」僕はうなずいた。恥ずかしいというのも、主観に過ぎない。どんな呼び名であろうが、ただの三人称に過ぎないのだ。
「俺は今日からキミのことをデビルリバースって呼ぶわ」
「はい?」キャッチャーもとい、デビルリバースは、唖然とした顔で言った。
「キミは、牙大王ね」
「き、牙、大王ですか?」
「うん」アクマをデビルに、ファングを牙に置換しただけのことだ。北斗転生という台に対する個人的な恨みもあるにはあったが、それも三人称的にはどうでもいいことだった。呼び名なんて、ただの記号に過ぎない。ただの記号であれば、できるだけ呼びやすい方がいい。
「で、牙とリバースは、どうやって生活してきたの?」


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 牙大王とデビルリバースは、四国を回りながら、道々でビギナー遍路を騙しては、金を巻き上げ、暮らしていたらしい。寺から寺を回り、時に野宿をし、巻き上げた金で風俗に行き、パチンコやパチスロで遊んでいた。まさしく山賊の所業である。どうやら、世紀末的な直感に間違いはなかったようだ。
「何で、そんなことを思いついたんですか?」
 お金が尽きたからです。小僧の質問に、言いづらそうにデビルリバースが答えた。

 おれ、生まれはこっちなんですけど、親の都合で山口に転校して、こいつと出会って。高校を卒業して、最初は大阪で就職したんです。おれも、こいつも。別々の会社でしたけど、それぞれクソな職場で、嫌気がさしてバックレたのも同じくらいの時期でした。
「おれはクビだけどな」と牙が口をはさんだ。
 まあ、おれもクビ同然やったけど、と言った後で、デビルは話を続ける。
 で、これからどうすっか? ってなって、おれは地元に帰りたいなって思って、飲みながらそんなことを言うと、イイネってなって、たぶんこいつは旅行気分でついてきて、金もかからんし、何か見つかるまでは遍路でもしよか? ってなって。何個目かの寺で、有り金を盗まれたやつがいて。遍路してるんはみんないい人ばっかで、そんなことをするやつがいるなんて思ってもみなくて。でも、そのまさかってのがポイントなんかな、みたいに思って、それから作戦を練って、でも、金入ったらすぐ使っちゃうし、ただ、遍路をしていると、色々な人に色々なものをもらえるし、それでずるずると……
「へえ」被害にあった人間とは思えないような表情で小僧は言った。「でも、スロットもやってることはあんまり変わらないんですかね、師匠」
「まあ」と僕は言った。「違うのは、法律に反するかどうか。それから、遍路をする人たちは、金のやり取りをしようと思って来てるわけじゃないってとこ。そこはパチ屋とは全然違う。だからこいつらは、間違いなく地獄に落ちるよ」
「そんな……」牙が不安そうな顔で言う。
「てか、そんなことして極楽浄土に行けると思ってたの?」
「……」牙大王と、デビルリバースはうつむいた。
 こいつらは、犯罪者だ。でも、三人称から見れば、良いも悪いもない。愛も憎もない。差別も区別もない。ただ、事実があるだけだ。僕だって、彼らと(同じではないと思いたいが)同じようなものだ。それでも、スロットを打つことを正当化できたのは、パチ屋に居るのは、強制ではなく、自由意志であるという拠り所だった。
「おれたち、どうしたらいいですか?」
「地獄に落ちたくなかったら、これをした結果、地獄に落ちてもいいんだ、と思えることだけをすればいいんだ」心配そうな二人に向けて僕はそう言った。
 そう、それこそが、僕がパチ屋の中で学んだ、後悔を残さないための唯一の方法だった。


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 断続的に続いていたいびきが止み、ゴホンゴホンというタンの絡んだ咳が聞こえ、もう、朝か、という声とともに、引き戸が開いた。
「おはようございます」僕たちは、家主に挨拶した。
「おはよう」ふわあと大あくびをしながら、たけさんは「今日は何曜日やった?」と言った。
「水曜日です」小僧が答える。
「今、何時や?」
「8時です」
「パチ屋行くんか?」
「はい」小僧が嬉しそうにうなずく。
 ふわあ。たけさんはもう一度大きなあくびをした。つられたのか、牙とデビルも大きなあくびをした。
「おまえら飯は?」
「まだです」
「なあ師匠、何か作ってくれん?」
「はい」
 僕は立ち上がり、キッチンにある冷蔵庫を開けた。卵とベーコンと牛乳があったので、それでオムレツを作ることにした。牙大王とデビルリバースが何か手伝います、と言ってきたが、邪魔なので、牛乳を渡して居間に戻ってもらう。

 気取りとか、恥ずかしいとか、そんなのは、一人称の事情に過ぎない。こいつ気取ってるなとか、こいつ恥ずかしいやつだな、と思われるかもしれないというのも同じだ。何を思おうが、思われようが、所詮、同じ生き物の所業。良い悪いもない。甲乙でも優劣でもない。すべてが等価。自由意志。
「あ、たけさん」形の悪いオムレツをみんなでつつきながら小僧が言った。「お二人の呼び名が、デビルリバースさんと、牙大王さんということに決まりました」
「でびるりばあす? きばだいおう?」たけさんは、箸を持ったままの姿勢で硬直してしまった。「正気か?」
「はい」
「それ、格好いいんか?」
「格好は、どうでしょう」と言って、小僧が首をかしげた。
「あの」リバースが姿勢を正して口を開いた。「おれら、心を入れ替えます。本気です。ですので、ここに置いてもらえませんか」
「図々しいにも程があるやろ」たけさんは真顔になって言った。「おまえら、自分が何したんか忘れたんか?」
「……」
 たけさんは、リバースの顔を至近距離でまじまじと見た後で、二カッと笑った。「ええよ」
「いいんですか?」牙が驚きのあまり立ち上がって言った。
「小僧がいいって言うたんやろ? ええい。鬱陶しいから座れ」
「ありがとうございます」
「その代わり、次何かやらかしたら、小指じゃなくて薬指もぎとるからな」
「こわっ」と言って、小僧が笑った。
「ほんで、小僧と師匠はスロットをするとして、こいつらは何をするん?」
「小僧と3人で何かしたらいいんじゃないですか」僕は言った。
「師匠は?」
「俺はいつもの店でスロットを打ちます」
「師匠なしで、おれはどうすればいいんですか?」小僧が心配そうな顔で言う。
「スロットしてもいいけど、俺とは別の店行ってね」
「そんな……」
「おまえが許すっつったんだろ? 甘えんなよ」
「4人で行くってのはなしですか?」
「なし。真面目な話、人数がいると、リスク分散にはなるけど、客同士のいざこざや、出禁になるリスクも飛躍的に増える。何度も言うけど、おまえが許すっつったんだろ? それを俺に押し付けるのはおかしい」
 スロットに出会って以来、初めて自分の本音を他人に言えた気がした。僕は、彼らを許せないということ以上に、自分に火の粉がかかるかもしれないという可能性が嫌だったのだ。結局、そういうことだった。
 僕の自我は、見栄えのいいものではない。その事実は曲がらない。曲げることができない。僕という概念を書き換えることはできないのだ。が、視点を変えることで、見栄えの悪い自分を直視することができるかもしれない。それは、初めて見る景色だった。
「だけどまあ、今年中に2人が戦力になったら、色々広がるよな」そう言うと、小僧の顔がパッと明るくなった。
「おまえらはそれでええんか?」たけさんが言う。
「はい」牙とリバースはうなずいた。
「それやったら、わしの軽を使えばいい。わしチャリあるし、師匠とそれで、いつもの店行くわ。おまえらどっちかは運転できるやろ? はあ、おまえらはそれで愛媛でも四国でも回ってこいや」
「あ、ありがとうございます」牙とリバースは声を揃えて言った。

 小僧と牙大王とデビルリバースの3人を見送った後で、不動産屋さんに電話して、世田谷のアパートの契約を切りたいこと、滞納していた家賃を入金し、敷金を返してもらわない代わりに、部屋にある荷物を処分してもらうという交渉をした。
「了解しました。でも、山村さんは大丈夫なの?」と不動産屋のおじさんは言った。もちろん、お金の未払いがあったからだろうが、僕のことを心配しているような口ぶりだったのが意外だった。
「転居先が決まってるんだったら、そこに荷物を送ることもできるけど」
「いえ。大丈夫です。お手数かけて申し訳ありません。はい。失礼します」
 お待たせしました。と僕は言った。たけさん、パチ屋、行きますか。
「よっしゃ、行こう!」


つづく
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