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10年近く前、東京大学で行われた文学的シンポジウムに参加したことがあった。

参加というよりは、座ってただ話を聞いていただけというのがより実態に近いのだけど、そのとき登壇したハーバード大学の教授がしきりに使っていたのが、「モード」という言葉で、辞書を引くと、方法、形式、様式、と出てくるが、これは、なかなかムズかしい言葉である。

本を読むときは、本を読む「モード」があり、スロットをするときは、スロットをする「モード」、眠るときは眠る「モード」と、人間は、それぞれ使い分けている。

「モード」は、すること(内容)によって、また、言語によって、育った環境によって、時代によって、それぞれ違ううえに、「モード」は、知識によって、経験によって、変化するものでもある。

文章を書く人間は、そのような他者の「モード」に合わせて文章を書くべきなのだろうか? あるいは、誰のどんな「モード」にも合うような文章を書くべきなのだろうか? それとも、自分の「モード」に合った(書きたい)ものだけを書くべきなのだろうか?
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その点、バジ絆のモードは、5つしかない。5つと言っても、DとEは(BT)確定なので、実質3つ。そのモードをめぐってすら、毎日七転八倒しているのだw

モードを認識するために必要なのは、「演出」である。ただし、演出の大部分は、モードA/モードB/モードC共用で、だから「勘違い」が、頻繁に起きる。

ぼくの場合、バジ絆の「モード」認識は、A(天保山)、B(高尾山)、C(富士山)と、それぞれ独立した山を見るようにではなく、(山脈や、エベレストのような)複合的な山の一部として、Aっぽい、Bっぽい、Cっぽいという、グラデーション(段階)として感知している。たとえば、モードAを10分割して、A.1からA.10まで。モードBを10分割してB.1からB.10まで。モードCを10分割して、C.1からC.10まで。というような感じ、イメージでしか、認識できていないということだ。小難しい表現になってしまったが、これが、ぼくの「モード」を読むときの「モード」であり、ぼくの「モード」読みの限界でもある。結果、BT終了後、超高確示唆が出た台を追って、それがテーブルNだった、ということが起こりうるのだ。

稀に、モードC以上が確定することもあるが、それは例外的な幸運に過ぎず、基本的には、そのグラデーションで、押し引きを迫られる。

モードCで超高確5ゲームを引く確率は、おおよそ1/60で、相手が確率である以上、60ゲーム回せば、60%強の精度の判別ができるはずで、120ゲーム回せば80%強の精度の、180ゲーム回せば90%強の精度の判別ができるはずなのだけど、どこまでいっても確率は100%にならないうえに、超高確状態に上がったからといって、100%演出が生じるわけではない。それ以上に大切なのは、ホール環境であり、リセットを使うか/使わないかで、この「モード」読みの価値が乱高下してしまう。

ここまで書いてきて、ふと思ったのは、バジ絆を読むときのぼくの「モード」→「グラデーションのような把握のしかた」というのは、ぼくという人間が、外世界を認識する時に採用している「モード」なのだろうか? ということ。

バジ絆同様、人間の感情も、100%に振り切れることはなかなかない。自分が100%正しいとは(思っていても)なかなか言えるものではないし、たとえ怒っていたとしても、怒りを伝えるためには、100%怒っていては言葉が出てこないし、100%悲しいも、人間の生活に支障をきたしてしまう。100%眠いはもう寝ている。100%しんどいはもう死んでいる。だから言語は、その怒ってる「かも/っぽい/だろう/に違いない」、悲しんでる「かも/っぽい/だろう/に違いない」という、グラデーションで捉えざるをえない心の「モード」を、できるだけ正確に伝えるためにあるのかもしれない。

どこかにチャンス目が落ちていればいいのに、と思ってしまうのは、バジ絆の打ち過ぎか。
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