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KOHHの新しいアルバムの中に、「まあしょうがない」という曲があるが、しょうがないで済むこと、しょうがないで済ましてしまうことが、年々増えていく感じがする。

十代の頃は、しょうがないと思えることの方が少なかったように思う。何もかもに腹を立てていたし、腹を立てるために生活をしているようなところがあったし、世界はぼくたちのことが嫌いだし、ぼくたちも世界のことなんて大嫌いだと考えていた、そんな節がある。

苛立ちの一番の原因は、自己評価と、他人の評価のギャップだと思う。まだ何者でもない自分に対する根拠のない自信。それに比べ、世間の目から漏れ伝わってくる「このクソガキが」という烙印。リスペクトが足りない。常にそう感じながら生きていたような気がする。

ぼくの知る限り、自己評価と世間の反応の隔たりについて、最も憤っていたのは、二十代の頃の松ちゃんだった。
「誰も俺の本当の価値を理解していない」
あの頃の松ちゃんは、そのようなことを文章に書き、また、そのような態度でテレビに出演していた。松っちゃんは、自己評価と世間とのズレに悩む全ての「俺たち」の代弁者だったのだ。

ぼくは、「ハマダー」ではなく、「ヒトシー」だった。そういう松本人志の姿に惹かれたからこそ、ぼくたちは、なけなしの金を握りしめて松ちゃんの書くものを買い、松ちゃんの撮る映画を映画館に見に行ったのだ。今の松ちゃんは、あんまり憤っていない感じがする。不倫スキャンダルのような俗世間の興味に怯えているようにも、攻めるべき対象を見出せないようにも見受けられる。その姿からは、笑いのためなら魂を売るというような気概も見えないし、部分的にではあるものの、現状に満足している様子すら窺える。そしてそれは、ぼくの偽らざる実感でもあるのだった。

ここ最近、というか昨日から松本人志さんのことを書いている理由の第一は、自分の中の、妙に大人ぶった態度がある。いや、逆だ。松ちゃんのことを書いているうちに、自分の中の妙に大人ぶった態度に気づいてしまったのだ。たいていのことは、「まあしょうがない」で済むし、嫌なことがあっても、寝ればだいたい忘れてる。時間は動き続けている。怒りが生じたとしても、その持続時間はあまりにも短い。

日常生活において、それは素晴らしいことだ。ストレスを抱えたまま生きるよりもずっといい。だけど、こと、何かを書こうとする段になって、しょうがないでは、何も進んでいかない。車にガソリン。EVに電気。燃料のようなものが必要なのだ。

では、その燃料はどこから持ってくればいいのだろう? 怒りだろうか? 確かに、ある種の怒りが、ある種の不幸が、モチベーションになるということはある。フランツ・カフカのように、幸せになってしまったら創作ができなくなるかもしれない、という不安から、結婚を取りやめてしまったというような話もあるくらいに。

ただ、別に不幸せな人間だけが面白いものを作れるわけではない。それは間違いなく言える。パチ屋で台を殴っている御仁は不幸せそうに見えるが、面白いものを作り出すための行為には到底思えない。

ぼくに足りないものは何だろう? 何もかもが足りない。それはもはや足りないという言葉でも足りない。簡単に言えば――簡単に言うだけに、とてもとても恐ろしいことなのだが――、これ、ストック切れじゃないか?

ストックが切れたらどうすればいいか。ストックがたまるのを待つしかない。ただ、ただ待つだけではいけない。それはたぶんストック機のストックをためる方法と同じである。コインをコツコツと投入すること。さもなくば、ストックのたまった台に移動することだ。

ということで、ぼくはパチ屋を離れ、ストックの宝庫と噂される建物、通称「図書館」に向かった。

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