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小説だろうが、何だろうが、すべての作家の使命は、「今ここにないもの」をつくるということだと思う。

目的も同じなら、条件も同じだ。「今ここにないもの」を、「今ここにあるもの」を使って現出させよ。すべての作家には共通の目的があり、共通の材料が用意されている。まことにフェアな戦いである。

たとえば、アメリカ式のスロットマシーンという「ここにあった」ものに、ストップボタンをつけることによって、世界に例を見ない娯楽マッスィーン――回胴式遊技機――へと進化したものが、パチスロである。

小説を書いていると、時々、自分が世界の最深部にいるような、自分が世界の矢面に立っているような、何だか自分だけが世界の秘密に触れているような気がすることがある。それはそれは、本当に素晴らしい感覚で、つい、そのことを、大げさに思ってしまうのだけど、たとえばサウナで我慢して、我慢して、水風呂に入ったときも、似たような爽快感がある。ノドが乾いたときに飲むビールも。

結局、創作と自分の関係を過大評価しすぎていたということなのだろうか?

コラムニストの小田嶋隆が、脚本家の北川悦吏子の言った「物を創ることに憑かれた人が負う、罪、というのもが、私はあると感じているのです。(原文ママ)」というツイート(を紹介する新聞記事)に対して、「家族を捨てないと本当の創作はできない」ってか? 「クリエーターは特別な人間だから特別なモラルで生きている」的な? 「何様のつもりなんだ?」としか思えない。」というツイートをしていたが、確かにワナビー的な感覚は、選民思想的(我こそは選ばれし者)お子ちゃまメンタリティなのかもしれない。

先日、村上春樹の初めてのラジオを聴いたが(TOKYO FM 村上RADIO)、その最後にDJハルキは、スライ・ストーンのこんな言葉を紹介していた。

ぼくはみんなのために音楽をつくるんだ
誰にでも、バカにでもわかる音楽をつくりたい
そうすれば、誰ももう、バカではなくなるから

Sly&The Family Stone   Sly Stone

村上春樹はデビュー以来から一貫して、この姿勢を崩していない。村上龍と対談した際も、こんなことを語っている。

 この前非常に、感動といったらおかしいけどね、感心した話があってね。どっかの編集の人に聞いたんだけど、大江さんというのはものすごくわかりにくい文章書くじゃない。大江健三郎さん。でも、あの人はね、だれにでもわかる文章を書きたいと思って書いているらしいのね。たとえば土方にでも、バアのホステスにでも、だれにでも本当にわかるやさしい文章を書きたいと思って努力してるんだって。で、そう思えば思うほどああいう文章になっちゃうんだって(笑)。それ聞いてぼくはすごく感激したのね。そういうところって、やっぱり大江さん偉いんだなあって思うのね。ぼくはああいう文章好きで書いているのかと思ったら、べつにそうでもないみたいなんですね。最近いちばん感動した話です。そりゃあね、多くの人に読まれる文章というのは多かれ少なかれ名文ですよ。ただ自分にあった酒や自分にあった音楽があるように、自分にとっての名文というのはある。僕にとっての名文というのは恥を知っている文章、志のある文章、少し自虐、自嘲気味ではあっても、心が外に向けて開かれている文章……というのは少し漠然としすぎているかもしれないですけど、具体的にそれに近いものをあげていけば、スコット・フィッツジェラルド、カポーティ、上田秋成、少し質は違うけどレイモンド・チャンドラー、そんなところかな。ヴォネガットもいいですね。まあ、スタイリストと言ってもいいかな、それぞれ少しづつヴァイタリティーに欠けるぶぶんはあるけれど。

「ウォーク・ドント・ラン」より

文章を書くというのは、誰かに何かを伝えるためで、伝えるためには、まず届けなければいけないわけで、誰かに届けたいためには、こんな風にわかりにくいごちゃごちゃした内容を文章に詰め込んではいけないのですね、という戒め。

これを、構成といいます(戒め)。


――文章はここで終わっている――

これもどうしてお蔵入りフォルダ入りになったのか忘れてしまった。バカという言葉が誤解を生みかねないと思ったのか。誤解が生まれませんようにと祈りつつアップ。

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