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おっすオラ寿。久し振りだな。

小さい頃、好きだった物語は、誰か悪いやつがいて、その悪いやつをやっつけるという話ではぜんぜんなかった。ここではないどこかに、自分の知らない世界があって、そこに紛れ込む、というのがぼくの好きな物語だった。同じ理屈で、恐竜が好きだった(恐竜博士になりたかった)。同じ理屈で、宇宙が好きだった(天文学を学びたかった)。

時は流れ、ジャンプを読むようになって、その嗜好が少し変わってきた(あるいは嗜好が変わったため、ジャンプを読むようになったのか)。どちらにせよ、「友情と、努力と、勝利」を隠れ蓑にした暗い願望が、体の中で暴れまわるお年頃になったのだった。

ニーチェ先生は、この種の暗い願望、すなわち人間の充実や生命欲について、以下の言葉で表現している。

「性欲、陶酔、饗宴、陽春、敵を圧倒した勝利、嘲笑、敢為、残酷、宗教的感情の法悦にほかならない」と。

これらはすべて、「人間の最古の祝祭の歓喜に属して」いる、と。

誰かを倒さなければ気がすまないというのは、逆に言えば、誰かに倒される可能性でもある。成長期。それは、それまでうっすらと覆われていた「自我」の衣が、堅牢な鎧に変わる瞬間でもあったのだろう。

「北斗の拳にしろ、フリーザ編までのドラゴンボールにしろ、どうして敵は圧倒的に間抜けで(少なくとも動機の面では間抜けで)、主人公は圧倒的に優れているのだろう?」

この問いは、「友情・努力・勝利」より出でし、大いなるテーゼである。敵が間抜けなのも、主人公が優れているのも、「敵を圧倒した勝利」、「陶酔」や「饗宴」、「嘲笑」、最古の祝祭の歓喜のためなのだ。

人間の中には、敵をボコボコに叩きのめしたい願望が渦巻いている。不倫や、不義が、ワイドショーをにぎわすのも同じ理由だ。ボコボコに叩くための材料なのだ。古今東西、祝祭に生贄を捧げ、ドラムが打ち鳴らされるのは、その象徴なのかもしれない。

我が家は、父も、祖父も、巨人ファンだった。その流れで、ぼくも巨人ファンになった。ぼくが少年ジャンプを買うようになった1989年。その年のペナントレースを制したのは、我らが読売巨人軍だった。相手は、今は名前しか残っていない近鉄バファローズ。3連敗からの4連勝での戴冠だった。巨人が勝てば、オールオッケー。巨人が負けには見ないフリ。巨人ファンにあらずんば人にあらずの平家モードにいるとき、源氏(パ・リーグ)の声は届かない。

もちろん、野球観戦も、人間の最古の祝祭の歓喜に属している。サッカーもそうだが、ゲーム終わりの感想を語り合う場では、「戦犯」という言葉が日常的に飛び交うのが、その証左だろう。まずは勝利を目指し、それが得られなかったら、戦犯探しという2段構え。勝ったらクリーンに喜び、負けたらブラックな悦びに浸る。と、こういうことを書くと、「じゃあ、最古の祝祭の歓喜が悪いんじゃないか?」と考えてしまうのが、最古の祝祭の歓喜の罠である。終わりなき犯人探し。このことを、反知性主義という。

この構図は、イジメにも似ている。イジメがなくならないのは、それが、最古の祝祭の歓喜を呼び起こすからだ。


――文章はここで終わっている――


文章をボーナスとすると、自分の話しか書いてない文章は、REGボーナスという感じ。連チャンしているときなら、まあいいか、となるけど、それ単体では、何も広がらない。それと、野球と宗教と政治の話は初対面の人とするなみたいな処世術がありますね。ぼくが巨人の熱烈なファンではなくなったのは、王(ON)長島対決を見届けた2000年の秋の終わりでありました。数え方によっては、20世紀のことなんですね。これもまた、信仰告白みたいではありますが。

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