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 永里蓮が溶けていく。朝日に照らされた真夜中の雪のように、永里の体が溶けていく。それは美しい光景ですらあった。が、同時に肉を腐らせたような不快な匂いが、ストレッチ・リムジンの車内に立ち込める。
「何か、おれ、間違ったことしたかな」永里が言う。
 僕は首を振る。
 ちぇ、永里蓮は舌打ちをした。「格好悪い最後だな」
「格好悪くはない」僕は言った。
「同じ顔したやつに言われても、何にも響かねえんだけど」と言って永里は笑った。「永里蓮、ラオウのような最期だったって語り継いでくれ」
 僕は首を振った。「すまん。俺は嘘をつけない」
「嘘つけ」永里は笑う。
 永里蓮の肉体は、もはや肉体とは言えない半透明な肉塊と成り果て、と思う間もなく、完全に溶け、消えた。後に残ったのは、不快な匂いだけだった。
 は、は、は、と笑い出したのは、りんぼさんだった。「危ないところだった。僕の正体を言ったのが、君でなくて本当によかった」
「……どういうことですか?」
「彼は、僕の正体を言うつもりで、はからずも、自分の正体をも吐露してしまったんだ」りんぼさんは、少し若返ったような声で言った。「彼はこう言った。『松田遼太郎。親の名前を継ぐことに反抗。婿養子に入る形で結婚して、田所遼太郎。伴侶である田所加奈が亡くなった後で、田所りんぼを名乗る』わかるかい?」
 僕は首を振った。
「永里蓮の母親の名前は、田所ハツ。僕の妹だ。彼と僕は、血が繋がっているんだよ。だから、僕は内側から永里蓮の肉体に干渉した。これは賭けだった。が、結果、僕が、勝った」興奮を抑えよう抑えようとしているが、抑えられないといった調子でりんぼさんは言った。
「あの、りんぼさん」僕は言った。「それ、同じ理屈が、永里蓮にも通用すると思うんですけど」
「どういうことかな」
「どういう理論かはさっぱりわかりませんけど、あなたと永里の血が繋がっていて、血が繋がっている相手に外側から干渉できるのだとすれば、あなたができて、永里蓮ができないというのはおかしい」
「そうかもしれない。が、彼は現に、こうして溶けてしまった。残ったのは、私だ」りんぼさんはそう言うと、小窓を開け、運転手に向かって、「ドアを閉めた後で、すみやかに出しなさい」と言った。
 運転手が外側からドアを閉めた後で、細長い車は静かに発進した。
 その間に、りんぼさんは、落ちていたグラスを拾い、シャンパンクーラーからシャンパンを取り出し、注ぎ、グラスを口元に運んだ。
 僕はゆっくりと首を振った。「そうは思いません」
「そうは、とは?」
「永里が敗者であると決め付けるりんぼさんの口ぶりです。今の今まで、りんぼさんは、自分が誰であるかを知らなかった。だけど、彼は、わざわざ危険を冒してまで、それを知らせにきたんですよ」
「君らしくない物言いだね」りんぼさんは言う。「彼は、自分の責任で、ここに乗り込んできた。誰に頼まれたわけでもなく、だ。そんな彼を援護したい気持ちはわかるが、君らしくない」
「いえ、単純に、永里蓮の方が上手だと思うからそう言ってるんですよ」
「……」りんぼさんは、グラスをテーブルに戻し、何かを考えるように、目を閉じた。そして言った。「それは、君の忌避したい希望的観測と何が違う? 君は、僕が生き残るよりも、永里蓮が生き残る方が感情的に嬉しい。それだけのことだ」
「いや、違いますね」
「ふん」太郎のような傲岸な態度でりんぼさんはシャンパンを飲んだ。それは、りんぼさんの言葉を借りれば、りんぼさんらしくない態度に思えた。
「太郎に俺は何度も言いました。いつの頃からか、自己責任は、他人を非難するための言葉になってしまった、と」
「何の話をしている?」幾分苛立った口調でりんぼさんは言う。
「自分に甘く、他人に厳しい。それは、ただの甘えです」
「何の話をしている?」
「他人の負けを必然と捉え、自分の勝ちを当然と考えるのは、強さではなく、弱さです」
「何の話だ?」
「今日の勝利は、明日の勝利ではない。今日の敗北は、昨日の敗北ではない」
「何の話をしている?」
「薔薇色の未来なんかない。黄金時代も存在しない。僕らの手の中にあるのは、いつだって何かが足りない『今』だけなんです」
「何の話をしてるんだ?」
 僕は、哀しい気持ちを胸にしまい、「今回は、あなたの負けです。りんぼさん」と言った。
「何故だ?」りんぼさんは、怖いものを見たような表情でそう言うと、固まってしまった。そして、そのままテーブルにつっぷすように倒れた。
 シャンパンの入っていたグラスが割れ、りんぼさんの額に突き刺さった。血が、テーブルに広がっていく。
「師匠」混乱そのものといった表情の小僧が言った。「どういうことですか?」
「そのうちわかるよ」僕は言った。
「あーあ」田所りんぼさんだった人は、顔から血を流しながら、起き上がった。「どうして、こう、油断しちゃうのかね」
「さあな。スロットを打たなくなったから退化したのかもな」僕は言った。
「期待値追い、か。おれたちがスロットで食ってた陰で、自殺してしまった人も、たぶん、いるよな」
「いるかもな」
「何か、哀しい気持ちだわ」
「勝って嬉しいのは、勝てない確率が高い勝負だからだ。必然的な勝利は憂鬱なものだ。その気持ちはよくわかる」
 ちぇ、と永里蓮は舌打ちした。「つうか、おれ、こんなに臭かったんだな」
「腐敗して臭くない人間なんていない」と言って、僕は笑った。

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「あの」呪いの呪文が解けないといった様子の小僧が言った。「あの、質問があるんですけど」
「うん」
「田所りんぼさんは、太郎さんだったんですか?」
「正確に言うと、かつて太郎だったもの、かな」
「りんぼさんはいなくなってしまったんですか?」
「ここにいるじゃん」永里蓮が言った。
「でも、あなたは永里蓮さんですよね」
「永里蓮は、ほら、溶けた」
「……わけわかんないんすけど」
「小僧、おまえ、名前は?」
「小僧です」と小僧は言った。
「ふざけてんの?」
「いや、本当です」
「すまん。俺がそう名づけたんだ」僕は言った。
「へえ。それはおれがすまん。じゃあさ、小僧くん。君の小僧って呼び名は、山村がいて、初めて生まれたってことだよね」
「はい」
「じゃあ、山村が死んだら、小僧というあだ名は、消える?」
「消えないと思います」
「そういうこと」永里蓮は笑顔で言った。「さてと、後は後始末、か」
 永里蓮は、運転席と後部座席を分ける仕切りについた小窓を開け、新宿のアジールというホテルまで行ってくれ、と言った。



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 俺の初期設定は、設定4という感じだと思う。高い方が有利とされる身長も高い方だったし、運動神経も、力も、人並み以上にあった。やや慎重さに欠けるきらいはあったが、学校の勉強はできたし、そのまま生きていれば、プラスだった蓋然性は高い。
 サダオ。山村崇は、設定3という感じ。永里蓮も同じく、設定3。勝ち負けは運で決まる。梅崎樹は、悪いけど、設定1。モードがハードすぎる。小僧くんは設定2かな。が、彼らは後天的に手に入れた能力で、あるいは運もあったのかもしれないが、初期設定を上回る人生を歩んできた。俺の目にはそう映った。俺だけが、初期設定を下回る人生を歩んでしまった。だけど、カナ。彼女に出会ったことで、俺の人生は、V字浮上したんだった。
 自己評価というのは、大抵、他人からくだされる評価よりも高い。サダオはそう言った。設定3か、設定4かと問われれば、謙遜さえしなければ、設定4と答えてしまうということだろう。反対に、他人に対しては、どうしてこいつはこんなにバカなことをするんだ? という目線になりがちだ。だから他人から見れば、俺の初期設定は、2か、あるいは1ということにもなるのだろう。
 俺は、結婚するまで、食器というのを洗ったことがなかった。男子厨房に入ることなかれという教育だったし、家を飛び出してからは、外食しかしてこなかったから、その機会がなかった。だからだろうか、俺以外が使った食器を洗うことに、抵抗があるのだった。俺はカナを愛している。が、そのカナが使った食器を洗おうとすると、体のどこかがざわざわする。自分の分を洗う分には、気にならないのに、だ。カナが俺の使った食器を洗うのは気にならないのに、だ。何故だ?
「自己責任という言葉は、他人の行動に責任を持てない大人の甘えだ」
 サダオはそう言った。そのときは、何言ってんだ、こいつ、と思った。が、あいつが言ったのは、こういうことではないか。自分はよくて、他人はダメというのは、甘えに過ぎないのだ、と。自分の初期設定を高めに見積もるのも同じ。自分の選んだ台が出るだろうというのも同じ。激熱演出が外れて首をひねるのも同じ。誰かに責任を求めることが、そもそも甘えなのだ、と。
 カナは、俺の太陽であり、麻薬であり、だから彼女がいなくなった後の人生を、俺は歩もうとは思えなかった。それだって甘えだった。その人がいなくなったら最後、生きていけないような存在にその人をしてしまうのは、むしろ敵だ。カナも、サダオも、ちゃんと教えてくれていた。そうか。初期設定なんて考えが、そもそも甘えだったのか。



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 だんだんと、田所りんぼさんだった肉体は、永里蓮の肉体としてなじんでいった。
 そんな永里は、りんぼさんがいなくなった後に生じた問題(ウサギ団の解体と再雇用など)を、ほとんど一人でこなしてしまった。小僧は、永里蓮に心酔してしまったらしく、彼に付きまとうようになった。鬱陶しいわ、と言われながらも、永里蓮の後ろをついていく。
「これからもりょーたろをよろしくお願いしますね」カナさんは言った。
「時間軸が違うんやからよろしくもクソもないやろ」永里は突き放すように言った。
「蓮、叔母に向かってそんな口の利き方をするのはやめなさい」
「だから時間軸が違う人間に説教すんなや」
「残念でした」意地の悪そうな顔でカナさんは笑う。「時間軸の違う誰かさんの心臓を持ってるのは誰やった?」
「は?」
「はい。時間軸は私が統合しときました」
「……そんなんありなん?」
「ということで、私は、夫を迎えにいきますけど、みなさんもいかがですか?」
「太郎に会えるってことですか?」僕は言った。
「はい」
「行きます」僕は即答した。
「蓮は、私のボディーガードとして、もちろんついてきてくれるわよね。私が死んだら、あなたも道連れなのだから」
「きったな……」
「嫌なら別にええねんで。でも、あなたがその体で復活できたんは誰のおかげや? 田所りんぼさんは、これ以上は分割することのできない一個体として自分を定義していた。でも、あなたは、私と桜井時生とに分割していた。結果、あなたが残った。違う?」
 ちぇ、と永里は舌打ちした。あまり褒められた態度ではないが、永里流の、否定による肯定表現だった。
「おれもご一緒してもいいですか?」小僧が言う。
「もちろん」カナさんは笑顔でうなずいた。
 じゃ、蓮、タクシー呼んで。
「……おれはかーちゃんのどれいじゃないっつーの」
「お、ドラえもんのび太と日本誕生」僕は言った。
「惜しい」永里蓮は言った。「ドラえもん『のび太日本誕生』のジャイアン」
「こまけーな」
 永里蓮は、スマートフォンをポケットから出し、タクシーを呼んだ。タクシーは5分くらいで到着する。
 カナさんが助手席に座り、小僧を真ん中にして、永里が右、僕が左という並びで後部座席に座る。
「東京駅までお願いします」カナさんが言う。
 太郎は今、京都にいるのだと言う。
「何で京都なん?」永里が聞く。
「お金がなくて、移動でけへんねやと思う。あれで案外プライドが高いから、人に貸してくださいって言われへん。かわいいやろ」
 かわいくはない、と思う。太郎に会ったら何を言おうか。おまえのせいでえらいめにあった。なんて言ってもしょうがない。といって、ありがとう、というのも変だ。そんなことを考えているうちに、東京駅についてしまった。
 カナさんが、タクシー代と新幹線代を払ってくれた。後でりょーたろから徴収するから気にせんでええよ、と言って。
 2人席をぐるりと回し、おれと永里蓮が進行方向を、カナさんと小僧が逆方向を向いて座ると、新幹線N700系「のぞみ」が動き出した。その瞬間、眩暈にも似た既視感に襲われた。そうだった。京都を目指すことで、この物語は動き出したのだった。あのときと今の感情のギャップに三半規管が揺れていた。目を閉じ、まぶたをマッサージする振りをして、やり過ごそうとした。
 新横浜を過ぎた頃、販売員が僕らのいる車両にやってきた。
「ビール飲もか」カナさんが言う。
 嬉しそうな顔で小僧がうなずく。
「させーん」と言って、永里が販売員を呼ぶ。
 プレミアムモルツの缶を手に、乾杯する。
 東海道新幹線。仲間。缶ビール。たまたまのガソリンスタンドだ、と過去の自分が言う。それでいいじゃないか、と思う自分もいる。だけど、この感情は、この環境は、持続しない。この時間がなくなってしまったときに、あの時間をもう一度過ごしたい、と願う。それが怖い。
 スロットに即して考えてみると、納得できるのだ。大好きだった4号機。ドギージャム。サンダーV。ビーナスライン。あの時代は落日の彼方に消えた。楽しかったし、懐かしいとは思うけど、別に戻りたいとは思わない。そんなことを考えても意味がないからだ。
 ここにいる小僧、永里蓮、田所加奈さん、ここにいない太郎。彼らの行動を、僕がどうこうすることはできない。だからこれは、はじめから不可能な感情なのだ。
「おまえって案外じめじめしてるよな」永里は言う。「素直に楽しめばいいのに」
 他人によくそんなことを言えるよな、と思う。
「だから他人には思えないって何回言ったらわかるんだ」永里は笑う。「てか、おまえそれ、思考だと思ってるかもしれないけど、全部口に出ちゃってるよ。なあ」
「そうですね。師匠は時々、思考の実況中継みたいなことしてますね」
「え?」
 自分一人では気づけなかった自分。まさかの天然炸裂だった。ふう、と息を吐いた。たまには、飲むか。
「飲め飲め」永里が言う。「おまえが酔いつぶれたら、おれが介抱してやる」
「おまえが酔いつぶれたら?」
「おまえが介抱しろ」
「二人とも酔いつぶれたら?」
「おれが介抱します」小僧が言う。
「仲いいねえ」悔しそうな顔でカナさんが言う。
 以前、ひとりで乗ったときは、眠ってしまったか、曇っていて見えなかったような記憶があるが、今日は富士山がよく見えた。空は快晴。富士山は、自立という概念のようにすっくと立っている。次にいつ会えるかはわからない。同じ幸運は二度と巡ってこない。時速270キロで遠ざかっていく富士山を見つめながら、さようなら、と心の中で言った。僕たちができるのは、挨拶くらいのものだ。そうだ。太郎に会ったら、まずは挨拶をしよう。こっちの気持ちはどうでもいい。向こうがどう思うかも関係ない。とにかく、「よお」と言おう。それからのことはそれからのことだ。
「なあ、だからそれ全部外にもれてっから」
 永里蓮が笑っている。小僧が笑っている。カナさんが笑っている。たぶん、山村崇も笑っている。これでいい。これでよかったのだ。たとえ、この新幹線が永遠に京都に着かなかったとしても、ぼくは今を生きる。
 さようなら。パチスロ。




おしまい
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