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「蓮のお父さんやけどな、ある意味では、死んでへんねん」田所加奈は、自らのフルネームを名乗った後でそう言った。
「は?」
「私たちが感じられる時間は一方通行じゃない。いや、ある意味では一方通行やで。でも、それは一本の道という風に表せるようなものではない。寝ているときの自分を知覚することなんてできないやろ。そこが夢であることは知覚できても、寝ている自分の姿を完璧に知覚することは原理的にでけへん。知覚するってのは、寝てへん証拠やからな。そういう意味での、『ある意味』やで。ある意味では、人間は死なへんねん」
「すまん。意味わからん」
「あんたの知るあんたのお父さんは、あんたの世界では死んでるけど、私の世界では死んでへんねん」
「マジで、まったく、意味わからん」あまりに理不尽なわけのわからなさに、テンポよく語気を荒げてしまった。
「あんたのお父さんは死んでへん。なぜかというと、私はあんたのお父さんを知らん。知らん以上、死にようがない」
「そんなん屁理屈みたいなもんやろ。生きてることを知らんかったら、死ぬこともない。当たり前や」
「でもな、時間とか、空間ってのも、そんなもんやねん。圧倒的ではあっても、完全に明確に絶対的なものではない。だからこそ、私たちは等価やねん」
「おいおいおい」カナの使っている言葉は理解できる。無論、日本語だ。ひとつひとつの単語の意味もわかる。だけど、それらが積み重なると、言葉から意味が剥がれ落ちてしまう。
「簡単なルールとしてはな」幼子に言い聞かすような言い方でカナは言った。「同時に二つの場所にいることはできへん」
「同時に二つの場所にいることはできない」おれは言う。
「そう。一度に複数の異性と付き合うことはできても、一度に複数の異性といちゃいちゃできても、一度に複数の異性とは性交できへん」
「それはわかるよ」おれは言った。「人間には、できることと、できないことがある」
「そう。できることには、個人差がある。でも、できないことは、ほとんどの人間が一緒やねん」
「ん? 足が速かろうが、遅かろうが、空は飛べない。そういうこと?」
「そういうこと」
「等価ってのも?」
「ある意味では」
「それがわからん。どうして急に、『ある意味では』って風に突き放すん?」苦笑まじりにおれは言う。
「それが限界やねん。一人の人間の」
「ある意味では、おれとカナは同じ生き物である。ある意味では、おれとカナは別の生き物である。区分次第でそらそうなるやろ。でも、それが何なん?」
「あんたのお父さんはな、あんた自身やねん」
「は?」
「あんたのおじいちゃんもあんたやし、あんたのひいおじいちゃんもあんたやねん。でもな、あんたのおかんは、あんたじゃないねん。これはあくまでも私の感覚やけどな。その感覚によると、あんたのお母さんは、私でもあるねん」とカナは言った。
「また遠のいた」おれは息を吐いた後で言った。
「時間ってさ」カナは言う。「過去、現在、未来、って風に区分するやろ。その向こう側には何がある?」
「過去、現在、未来の向こう側。永遠。とか無。とか?」
「そう。じゃあ、その内側は?」カナは言う。
「今」
「そう。私たちは、もう間もなく新宿に着く電車に乗っている」
「うん」
 蟹のように、おれたちは横向きで進んでいる。右から左へ移り変わっていくのは、東京の夜だ。ビルの明かり。店の明かり。マンションの明かり。道の、街を照らす灯。車の、バイクの、自転車のヘッドライト。テールライト。リフレクター。白熱電球、ネオン管、蛍光灯、ブラックライト、LED、幾世代もの光で混沌とした空間。
「でも、ある意味では、永遠に新宿に到着しないということもありうる」そう言ったカナの顔が光って見えた。
 ある意味では、永遠に新宿に到着しないこともありうる。両まぶたをこすりながら、カナの言った言葉を言葉を反芻した。……そうか。
「おれたちを見ている人がいる」おれは言った。
 カナが黙っているので、おれは続ける。
「おれたちを見ている人が、見ることをやめてしまったら、おれたちは永遠に新宿には到着しない」
 カナはうなずいた。
「おれは、一度に複数の場所にはいられないけど、複数の場所からおれを見ることはできる」
「そう。それが個人の限界であり、人がたくさんいることの意味」
「ずるくね? それ?」
 カナは首を振った。「でも、その人たちだって、一人の人間。自分のすることは、一回限り。私たちは、合わせ鏡のようにつながっている」
「ファック」おれは言った。
「私たちは簡単に死ぬ。忘れられた途端に消えてしまう。そう、ある意味では、ファック。だけど、私たちのことを見ている人がいる限り、覚えている人がいる限り、私たちは死なない。それは、ある意味では有難いこと。逆もまた同じ。私たちが見ている限り、私たちが覚えている限り、死なない人はいる。そういう風にして、私たちはつながっている」



       17



 僕が打っていたバジリスク絆は、11000枚ほど出たところで、閉店を迎えた。店員にコインを流してもらい、レシートを受け取る。カウンターでレシートを特殊景品に交換してもらう。僕はプレイボーイのセットアップを着た小僧とともにパチ屋を出て、景品交換所にて、おおよそ20万円分の特殊景品と現金を交換した後、虫唾が走るくらい嫌悪感のあるストレッチ・リムジンに乗ったのだった。
「師匠、久し振りだね」りんぼさんは、一夜にして老け込んでしまった人のような顔で言った。いや、実際に一夜にして老け込んでしまったのだろう。そんな印象だった。
「お久し振りです」
「いつ以来だっけね。思い出せないくらい昔な気がする。ところで、師匠。シャンパーニュを用意したけど、飲むかい?」
「酒は飲みません。もう逃げたくないんで」そう言って、僕は笑った。
「小僧くんは?」
 プレイボーイのセットアップを着た小僧は、いただきます、と言って、背の高いグラスを受け取って、いかにもうまそうに口に運んだ。
「りんぼさん」僕は言う。
「何だい」
「りんぼさんは、物語を集めてるって言ってましたよね」
「そうだね」
 りんぼさんは進行方向と逆向きに、テーブルをはさみ、僕と小僧は進行方向を向いて座っている。どこに向かっているかはわからないが、リムジンは静かに進んでいる。
「これぞっていう物語は見つかったんですか?」僕は聞いた。
「まだだね」
「見つかりますかね」
「見つかるといいな、と思うけどね」
「見つからないですよね。たぶん」僕は言った。
「どうしてそう思うのかな?」りんぼさんは言う。
「りんぼさん。今まで気づいてあげられなくて、ごめんなさい。だけど、あの時点で気づくのは、不可能だった。一つの時間軸に、一人が複数人存在するのは、物理的にも倫理的にも論理的にも物語的にもおかしいことですから」

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「何の話だろう?」疲れきった表情のりんぼさんが言った。
「りんぼさん、あなたは忘れてしまったんです。最初は、失われた自分の記憶を補完しようと、時間を巻き戻した。でも、何度も、何度も、何度も、時間を繰り返していくうちに、忘れてしまったこと自体を忘れてしまった。その事実を隠蔽するように、物語を探すという名目を立て、時間を繰り返すようになった。そして、各時代に、自分の痕跡を残していった。あるときは、桜井時生、あるときは、永里蓮、あるときは、俺、あるときは、小僧、あるときは、太郎。そんなことを繰り返しているうちに、あなたの肉体は古びていってしまった。物理的にも倫理的にも論理的にも物語的にもおかしいことが許される唯一の存在。それは、神だ。あるいは悪魔だ。悪魔は神のしていることを、すべて知っている。自分でそう言ってましたよね。でも、こう言っちゃなんですけど、それって壮大なオナニーですよね」
 りんぼさんは、拍手をしていた。
「ありがとう。君は、僕の存在理由を語ってくれたんだね。でも、わからないことがある」
「何ですか?」
「僕は、自分自身の痕跡を各時代に残していったのに、どうしてそのことを忘れてしまったんだろう?」
「それは、残そうという意志があって、残ったわけじゃないからですよ。僕の身にも同じことが起きたのでわかります」
「君の身に起きたこと?」
「はい。僕はサダさんという人間を、そして、白い家という空間をつくりだしてしまった。10年という時間、そこから出られなかった」
「君は、36歳になったんだったね。10年前といえば、26歳。僕達が出会ったのは、4年ほど前のことではなかったかな? すると、その発言は、物理的にも倫理的にも論理的にも物語的にもおかしいということにならないかな」
「おかしいでしょうね。でも、それは起きてしまったんです。どうしてだと思いますか?」
「さあ。わからないから聞いているのだけどね」
「始まりを探そうとするからですよ。りんぼさん。無から有は生まれないはずだ。そこには何かがあったはずなのだ、と。でも、実際は違いますよね。少なくとも、僕の人生の始まりには何もなかった。僕はたまたま生まれた。ただ、それでは物語にならないんです。だから物語話者は、喪失を、あるいは欠落を、捏造によって乗り越えようとする。たとえば、元祖という存在が、自ら元祖を名乗ることは、原理的に不可能です。オリジナルが自らオリジナルと名乗ることもそう。元祖がひとりだとすれば、比較する相手がいないのだから、元祖を自称する必要性が存在しない。元祖がふたりだとすれば、それはもはや元祖とはいえないのだから、元祖を名乗れない。矛盾以外に出口がない。そういうとき、人間は、自らの都合のいいように、事実を改竄するんです。僕は自ら作り出した白い檻の中で、自分の記憶を語ろうとしていた。でも、それは、物語を語ろうとすることと同じだったんです。あの日、あの時、あの場所で、と思い出したとしても、その思い出は、未来からの干渉を受け偽造された感情、感傷に過ぎないんですよ、りんぼさん」
「ふむ」りんぼさんはそう言うと、何事かを考えるように、目を閉じた。
「師匠」小さい声で小僧は言った。「何の話をしてるのかさっぱりわからないんですけど」
「スロッターは足で稼ぐって話」
「師匠はスロットで稼げなくなったらどうするんですか?」
「しなければいけないことをするよ」
「しなければいけないことって?」
 そのとき、運転手が急ブレーキをかけた。予定されていたものではなかったのだろう。テーブルの上にあった、背の高いグラスが倒れ、シャンパンがりんぼさんの膝にかかった。
 外側から、ドアが開いていく。
 そこに立っていたのは、永里蓮だった。
「おれも混ぜろや」



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 りんぼさん、お久し振りです、前に会ったときも、このリムジンでしたね、とおれは言った。
「何でおまえがここに、みたいな顔しないでくださいよ。りんぼさん。おれは山村と違ってそんなにSっ気はないので、イジメに来たわけじゃないんです。というよりも、あなたに耳寄りな情報を持ってきたんですよ」
「何だろうか」絞って絞ってようやく出したといった感じでりんぼさんは言った。
「原因と結果、伏線と本線、現象と本質、過去と現在、誕生と死、それらが錯綜してますけど、どうやら、あなたが始まりってのは間違いないっぽいです。いや、これは別に犯人探しとかじゃないですよ。暫定版、かつ決定的な結論って感じですかね。私はアルファ。私はオメガ。人間はみんなそうなんですよ。最初であり、最後でもある」
「永里蓮、僕は君のことを呼んだ覚えはないが」
「おれが用事があるって何回言ったらわかるんだよ。このバカチンが。松田遼太郎。親の名前を継ぐことに反抗。非道徳的、反社会的、怠惰かつ自らの欲求に忠実なる生活を送った後、心を改める。婿養子に入る形で結婚して、田所遼太郎。伴侶である田所加奈が亡くなった後で、田所りんぼを名乗る。これが、あなたの人生ですよ。りんぼさん」
「おい」山村が声を荒げて言った。「永里、それは俺が言おうと思ってためてたやつだぞ」
「だから、おまえが言うと、角が立つから、わざわざおれがやってきたんだろ」
「それ言ったら、終わっちゃうだろ……」山村は、落胆した小学生のような態度でそう言った。
「おれ、言っただろ。おまえをサポートするって。これでいいんだよ」
「どういうことですか?」プレイボーイのジャージを着た若者が言う。
「逆鬼ごっこみたいなもん。タッチすると、鬼になる。山村が鬼に手をかけようとしてたのに、おれが先にタッチしちゃったもんだから、すねてるわけ。でも、スロットもそうだったろ。台の優先権は早いもん勝ちなんだよ」
「ということは、あなたがりんぼさんになるってことですか」
「たぶん」
 と、言ったものの、勝算がないわけではなかった。おれは、桜井さんと心臓を共有している。おれたちの心臓は、カナが保管してくれている。だから、まあ、大丈夫じゃね、と思ったのだった。この人は、過去を忘れてしまった。でも、おれは、忘れていない。忘れてしまったこともたくさんあるけど、大切なことは覚えている。だから……
「おい、永里」山村が、驚いたように言った。
「ん?」
「おまえ、その体……」

つづく
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