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 日脚がぼうとひろがれば
 つめたい西の風も吹き
 黒くいでたつむすめが二人
 接骨木藪をまはってくる
 けらを着 縄で胸をしばって
 睡蓮の花のやうにわらひながら
 ふたりがこっちへあるいてくる

1924年5月8日 宮沢賢治「日脚がぼうとひろがれば」より 


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 私な、とカナは言う。ちょこっとの間、京都に住んどって。その頃、マナっていう親友がおったんやんか。
 そのせいかわからんけど、私は自分の名前が好きじゃなかった。というか自分の名前が嫌いやった。仮の名前みたいで。私の欲しいものは、マナが全部持っていて。マンガでありがちな話やねんけどな。マナの家は、カールっていう犬を飼っててな。その子もむっちゃ可愛くてさ。でも、うちはそんな、ペットとかあかんボロいアパートでな。
 あの、おずおずと俺は聞いた。俺はいつ出てくるのでしょうか?
「主役の登場はもうちょっと待ってな」嫁は言う。
 よし、待とう、と思う。
 しかし、嫁は口をつぐんでしまった。
「どした?」
「えーと、記憶が混濁してる」
「ん?」
「んーと、えーと、何か、めっちゃ危機的状況やってんや」
「何が?」
「あんたと出会った日」
「いつの話してんの?」
「ちょ」と言って、嫁はエヴァ初号機のように、手で俺の発言を制した。「今、思い出してるから、ちょっと黙って」
「はい」
「あ、そうそう。あんな、マナと買い物しとってん」
「どこで?」
「どこやったかなあ」
「ほんで?」
「格好いいお兄さんがおったような」
「それが俺?」
「いや、それは違う。明らかに」
「……ああ、そう。ほんで?」
「えーと、ちょっと待ってな」
「さては、覚えてへんな?」
「ちゃうって。ちゃんと覚えてるって。ちょっと待ってよ」
 カナと出会ったのは、2006年か、2007年か、確かそのあたりのことだった。東京に戻って、仕事を始めたのは2008年で、俺たちが結婚したのは2011年で、マコトを授かったのは2013年のことだった。仕事を始めてからのことは、クリアに覚えているのに、その前のことになると、暗雲が立ち込めるのだった。
 生まれて初めての記憶は、昭和の終わり。街中が暗い夜という薄ぼんやりとした記憶だ。確か小学校二年生。その前のすべては、闇に包まれている。
 ということで、1980年に生まれ、1989年に目覚めた俺の人生は、二つの時期に分けられる。1989年から1998年という子供の時間。2008年から今に至る大人の時間。子供と大人の間には、セックスとドラッグとギャンブリングというリンボーな時間が横たわっている。
 初めて打ったスロットはピンクパンサーだった。あ、これやばい、面白いと思ったのは、ハナビだった。たまや~ランプの字体だけで御飯が食べられそうなくらいにハマッた。そのうちに、ンテロリン、というスタート音の遅れから、ピュー(花火が上がる)、ポン(花火咲く)という音が頭の中で無限リピートするようになり、つまり、禁断症状が出るようになり、パチ屋に入り浸るようになった。改めて振り返ってみると、過去の振り返り方が異様に下手だな、と思う。俺。細部を全然覚えていないのだ。記憶力は悪くないような気がしていたが、それはテストの点数を取るための能力であって、自分の経験したことを思い返したり、再生、再現する能力ではない。そんな記憶力に意味なんてあるのだろうか? 
 基本的に、嫁の方が頭の出来がいい。その分くよくよする。そんな傾向がある。俺は前しか向けないが、嫁はいつも、後ろばかりを振り返っている。嫁の記憶が曖昧な以上、俺たちの出会いは藪の中ということになりそうだった。まあ、今がよければいいとは思うのだが。
「あんた、誰かと一緒にいたやろ」カナは言う。
「ウメ、かなあ。あの頃はずっと梅崎と一緒に行動しいたような気がする」
「思い出せるところから思い出したらいいんよな。こういうのって。取っ掛かりさえあれば、後はイモ掘りみたいに、ずるずると、引っ張り出せる気がする」
「うん。俺ら、何、したっけ?」
「アメ村で飲んだな」
「うん」
「キタで飲んだな」
「うん」
「ミナミで飲んだな」
「うん」
「十三で飲んだな」
「うん」
「あかん」と嫁が言った。「飲んだ記憶ばっかりや」
「あ、映画行ったやん。パイレーツオブカリビヤン」
「カリビアン、やろ」今度は嫁が懐疑の目で俺を見る。「そやったっけ?」
「梅田の東宝シネマズで見た気するけど。ワールドエンド」
「ああ、ジャック・スパロウが分身しまくるやつか。ピンクの象みたいなもんやろ。あんなんようディズニーでやったよな。それともディズニーの伝統なんかな。酔ったせいであんな映画を見たのか、あんな映画を見たせいで酔っ払ったのか」
「どちらにせよ、俺たちの過去は、酩酊の彼方にある、と」
「うー。クレイジー。許すまじー」
 嫁が、妙な文言をとなえながら俺のベッドにもぐりこんできた。
「決めた。今日のところは、寝よう」そう言って、俺の肩に、頭を乗せる。
「りょーたろ、おやすみ」
「おやすみ」と一応、言った。だけど、俺には健康な肉体と下心があった。
 シャンプーの匂いに鼻腔がくすぐられる。嫁の体がここにある。というか、触れている。手を伸ばせばすべての部位に手が届く。眠くなるというよりも、熱くなる条件が揃っていた。が、色魔ではなく、眠りの粉を吸い込んでしまったかのように、睡魔がやってきたのだった。
 俺という凸が、眠りという凹にすっぽりとはまるような眠りだった。ほとんどセックスのような。射精のない。完璧な。

つづく
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