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 桜井さんのもとを離れようと思った。
 おれはおれの幸せだけを求めよう。お金なんて自分ひとりくらい何とかなる。今からでも遅くはない。好きなことをしよう。
 階段を下り、1010号室に戻る。
 部屋に入って、眼を疑った。おれは少年を、ベッドにくくりつけて出てきたはずだった。そのベッドが宙に浮かんでいるのだった。一瞬、夢なのか? と疑い、目をこすり、それから、1010号室から出た。そこは、磨り減りに磨り減ったアジールの廊下だった。そりゃ、そうだ。もう一度1010号室に入る。
 やはり、少年とベッドは宙に浮かんでいるのだった。
 うーん。物理法則を無視したこの現象を、どう解釈すればいいものか。無論、時間逆行だっておかしいのだけど、慣れというのは恐ろしいもので、特例というか、むしろ普通の現象として処理してしまっている。この重力への反逆も、その類なのだろうか?
 ここで疑問となるのは、この現象は、少年が引き起こしたものなのか。それとも、誰か、術者的な人間がいるのだろうか、あるいは、自然発生的、神の意思的なものなのか。
 見上げると、少年の鼻が、天井につきそうである。大丈夫か? このままベッドが上がっていくと、少年は潰されてしまう。そんなことが少し心配になった。
「おーい」と呼びかけてみる。タケルって言ったっけ。「タケルくん」
 反応がない。
「タケルくーん」
 再度、呼びかけてみるも、反応なし。
「浮いてるよー」
 だんだん馬鹿らしくなってきた。
 ま、いっか。これ以上、上がっていく感じもしないし。冷蔵庫を開けて、缶ビールを取り出して、ソファに座って飲むことにした。
 不思議な光景だ。シュルレアリスムの絵画を見ているような。
 テロを未然に防いでやるという決意が、だんだんとしぼんでいった。ベジータに上等を切ってしまったのも、何だか悪いことをしたような気になってきた。これが10代との違いか。冷静になったというか、酔いがさめたというか。
 ドンドンドンドン、と誰かが部屋を叩いている。誰だろう。桜井さんなら、携帯に連絡が来るはずだ。カナなら、あの強さではたぶん叩けない。まあいい。ベジータか、配下の誰かと仮定しよう。
 プライドが高そうな人間をおちょくると、こういうことになる。それは学生時代から、よくわかっていた。
 プライドが高い人間は、プライドが傷つけられることに耐えられないのだ。だけど、ほとんどすべての人間には、プライドが備わっているのだ。だからパチ屋においては、まず、収支をつけることから学ぶ。このやっかいな心の特性と折り合いをつけるために。リールを直視するよりも、収支を直視しなければいけない。それが直視できない人間は、一生自分をごまかし続ける。
 誰かが執拗にドアを叩いている。台パンをするやつと同じだ。好きなだけ叩けばいい。そのエネルギーが報われることはない。
 ビールを飲み干して、ゴミ箱に捨てる。ドン、ドンドン、粘着質な台パンマンは、不毛な行為を続けている。
 飲みかけのジャパニーズウイスキーをグラスに入れて、口に運ぶ。口いっぱいにショコラのような甘さが広がり、ゆっくりと消えていく。
 と、それまで重力に逆らっていたベッドが、地上における法則を思い出したように、ドスンと落ちた。
 ベッドが落ちた衝撃で、少年が目を覚ました。
 少年はしまった、寝坊してしまった、というような顔できょろきょろした後で、「あれ?」と言った。
「おはよう」
「おれ、浮いてました?」
「うん」と言って、ウイスキーを口に運んだ。
 少年は観念したような顔をして、「永里蓮さんですよね」と言った。
「うん」
「人が浮くことを、どう思いますか?」
「驚くね」
「それにしては、落ち着いてますね」
「モルトウイスキーを飲んでるからね」

つづく
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