KIMG5347




 飲んでいる間に、70回くらい名前を聞きたい衝動に駆られた。
 4軒店をはしごして、アジールに戻る。
 おれは酔っていた。酔ってはいたが、どこかで醒めていた。
「何であのホテルに暮らしてるの?」と女は言った。
「義理」
「何の?」
「何の」と言ったまま、言葉に詰まった。
「もう少し飲む?」
「いや」おれは首を振った。「帰って寝るわ」
 女は今日は楽しかった、と言った。ありがとう。
 東口の交番の前でおれたちは別れた。

       777

 途中のコンビニで水を買った。
 ロビーの3人が、「お帰りなさいませ」と言った。
 彼らは常にここにいるのか、それとも、おれが帰るのを見計らってここに集まっているのか、ずっと3人でいて、話が続くのか、やはり女性一人を取り合う構図なのか、謎は尽きなかったが、まあ、どうでもいいわな、とか何とか思いながら鍵を受け取って、11階に上がった。
 財布の中には30万程度の現金が入っている。足りなくなったら桜井さんに言えば足してくれる。スロットを打たなくても、生活に困ることはない。だけど、スロットをしていた頃よりも、生きている実感がない。
 お金が自由になって間もない頃は、色々と、欲しいものを買った。Z4(BMW)、フランク・ミュラー、タンノイのスピーカー、オーダーでスーツと革靴を仕立ててもらったこともあった。だけど、それらは持ち越せないのだ。
 お金に興味のある女性に興味がある振りをしてみたこともあった。が、演技ができないということに気づいただけだった。何のためであれ、興味のないものに興味ある振りができるというのは、大変なことなのだ、と知った。時間だけ自由な人間の振りをしてみたこともあったが、誰も近寄ってこなかった。
 そういうむなしい行為の端々は覚えている。が、相手が誰かということになるとまったく思い出せない。「こと」や「もの」は思い出せても、「ひと」が思い出せない。 
 空虚な気持ちが浮かんで、天井の染みと同化した。まったく、どうかしてる。まだ酔いが残っているのだろうか。いや、今日は久し振りに楽しかった。だからこその反動だった。足し算と引き算。それだけの話だ。
 やりたい。眠たい。腹減った。
 それが、基本的な欲求だとしても、それだけでは人間は飽き足らない。
 人は、ヴァリエーションを求める。白米が一番だ。だけど、時にはうな重が食べたいし、麺類も捨てがたい。ビーズクッションも心地いいが、革張りのソファだっていい。畳の香りも好きだ。たぶん、世界を広げたいのだ。それが自由というものの根源的な価値なのだ。
 だけど、どれだけ贅沢をしても、結局は死ぬ。何を経験していても、何を経験していなくても、死ぬ。金持ち? 貧乏人? 関係ない。最高の医療と最低の医療で、変わってくるのは、せいぜいが数十年の話だ。金持ちだからといって200歳まで生きることはできないし、貧乏だからといって10歳で死ぬわけじゃない。金持ちの家に生まれるかどうかの運。頑丈な体で生まれるかどうかの運。ハードラックとダンスっちまわないだけの運。世界は何と平等なのだろう?
 ペットボトルの水を飲んで、服を脱ぐ。おれの、ほとんど唯一の使い捨てじゃない所有物である携帯電話に充電器に挿して、ボクサーパンツとTシャツ姿で横になる。
 足し算と引き算。
 おれに足りないのは、たぶん、責任だ。何をしてもいい。しなくてもいい。何をしても、しなくても、時間は勝手に進み、勝手に戻る。行為は無に、微細な記憶も塵に帰す。その代わり、おれは死なない。死ねないのだ。
 天井の染みが揺れ出した。そろそろ眠る時間だ。はい。今日はこれでおしまい。

       777

 ……おしまいではなかった。
 おれはぷかぷかと浮かびだし、さらには天井を超え、ついには新宿の上空を飛び始めたのだった。
 何だ、夢か、と思う。
 横には相棒がいて、一緒に飛んでいた。それが相棒であることはわかるのだが、女だか、男だか、顔すらも判然としない。まあ、夢だ。しょうがない。とにかくおれたちは、夜の新宿の上空を飛び回っている。ありとあらゆるものが光り輝いている。そのうちに、相棒が、上昇を始めた。上へ、上へ、何も言わずに上がっていった。
 おれはひとり、新宿の上空で固まっている。そこから動けないのだ。上にも、下にも。目を閉じようにも閉じることができない。と、どこからか、音が聞こえてきた。
 かちかち、かちかち、という音だった。
 おれを現実に戻してくれた時計によると、3時になるかならないかという時間だった。
 おれはベッドの上で、時計の針が動いていく様を見つめていた。
 秒針ってこんなに早かったっけ?
 もちろん、壊れていない限りは、針のスピードは一定のはずだ。だけどそれを見るおれの心持ちはそうではない。15秒ほどで飽きるのだ。針がゆっくりになったような気がする。数字の6を過ぎる頃、恐怖心を覚える。こんな意味のない時間を過ごしていいのだろうか? また、針のスピードが上がる。45秒が経過。深呼吸をしているうちに12に到着。秒針の一回りを見届けた後で、おれは目を閉じた。
 目を閉じても、時計の針は止まらない。たぶん、寝ている間も、止まらないのだろう。まったく必要ないのに。たぶん、おれがここにいない時間も動いているのだろう。壊れるか、電池がなくなるまでは。

つづく
にほんブログ村 スロットブログへ