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 おはよう。と声に出してみる。
 朝御飯は、玄米だか雑穀米が入った御飯に、大きな貝の入ったおすまし、煮しめ、ちりめんじゃこの入った卵焼き、和風ソースのかかった豆腐ハンバーグ(というべきか、つみれというべきか)というものだった。
 満ち足りた朝食をいただいた後で、部屋に戻って小説の続きを読んだ。ここにある小説は、すっきりハッピーエンドとならないことが多かった。たぶん、すっきりハッピーエンドになってしまってはいけない理由があるのだろう。
 ヘミングウェイの「老人と海」を読む。
 老いた漁師が海でカジキマグロを追いかけるだけの話だった。それだけのために老人は生きているのだった。生きて、たぶん死んでいく。ひとりの人間の人生を載せて天秤が吊り合うたったひとつの行為。僕にそんなものがあるのだろうか? 到底思いつかなかった。
 昼食は、カレーピラフと温野菜のサラダ、オニオンスープ。そして、深淵そのものといった色の珈琲。今すぐ喫茶店を開くべきだと思い、それを口にした。パチ屋の近くにあったら、週に三回、いや、四回は行きます、と。
 サダさんはにっこり笑い、謝辞を述べた後で、「不特定多数の人に向けて何かをつくることはできません」と言った。
 言っていることがよくわからなかったので、聞き返すと、「人の能力は、限定的なものと、無制限的なものがあり、僕は前者なんですね」と、これまたよくわからない回答が返ってきた。
「どうしてですか? 喫茶店にしても、旅館でも、ホテルでも、大衆食堂でも、居酒屋でも、何をやっても成功するような気がしますけど」
「羽生棋士は、チェスも上手に指されるそうですし、アメリカにはアメフトと野球を掛け持ちするアスリートが一定数いるそうですが、僕の能力にはそのような汎用性がないのです」
「誰かと働くのが苦手ということですか?」
「いえ、そういうことではありません」サダさんは言った。「動機と行動を架橋することができないんです。一つのインプットに対して、一つのアウトプット。一つの目的に対する一つの正解しか追えない。例外に対して適応できないんです。だからそのような店を開いたとしても、どこかの地点で僕はフリーズしてしまうと思います。多くの人に迷惑をかけてしまいます」
 例外? 僕は例外ではないということだろうか。
 どこまでいっても平行線が続くように思えたので、そうですか、と言ってその話を終わらせた。
 ごちそうさまでした。
 部屋に帰って少し休んだ後で、筋トレをした。筋トレをしているうちに、白い床に落ちている僕の髪の毛が目についた。よくよく見ると、埃もたまっていた。埃や髪の毛は、時間が前に進んでいる証拠のように思えた。掃除をするとすっきりした。
 少し昼寝をした後で、小説のつづきにとりかかった。
 これが、今僕が本当にすべき唯一のことかどうかはわからないが、本に書かれている文字を追うのは楽しかった。
 それは、以前にも味わったある感覚に似ていた。一軒の店を発見し、開拓していく感覚。客層、台のラインナップ、出玉状況を精査し、店の設定傾向を摑んでいく。そしてたどり着いた設定差。山登りに似ているような気もした。

 トーマス・マン「トニオ・クレーゲル」
 ヘルマン・ヘッセ「車輪の下」
 スタインベッグ「ハツカネズミと人間」
 カミュ「異邦人」
 ルイス・キャロル「アリス」シリーズ
 宮沢賢治「銀河鉄道の夜」
 芥川龍之介「藪の中」「或阿呆の一生」
 太宰治「人間失格」「斜陽」
 夏目漱石「坊ちゃん」「三四郎」「草枕」

 を、踏破。幾つかの作品は再読だったが、前に読んだときとは明らかに印象が違った。
 一週間、それとも二週間が経っただろうか? 時間が進むごとに、読書という行為に前のめりになっていった。それはすでに、文字を読むという感覚ではなかった。文字の連なりが、脳内で即、像を結ぶというような飛躍だった。もちろん難しい箇所は難しい。でも、時間をかけて噛み砕けば、何かしらの像を結ぶのだった。当初は8000回転くらいしか1日にリールを回せなかったが、そのうちに上限ギリギリいっぱい、10000回転近く回せるようになるという適応のような。
 これを機に、前々から読んでみたいと思っていた作品を手に取ってみた。世界最高の小説の呼び声高いドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」
 僕は、この未完の大長篇小説を一週間ほどで読了した。
 三兄弟の物語。こんなことを言ったら精神を疑われるかもしれないが、僕は次男のイワンに最もシンパシーを覚える。この物語に出てくる中で、彼だけが期待値を理解しているように思えるのだ。ただ、そのせいで、この時代の精神にはそぐわない。そして、期待値的思考とかけ離れた恋愛という穴にはまってしまう。長男のドミートリィはさしずめ太郎だった。そして、太郎的弱さとイワン的脆さも併せ持つ純真無垢の主人公、アレクセイ(アリョーシャ)。
 通常、一篇の小説において、作者の魂は二つにしか割れないように思える。それはともに引き合う引力のような関係だ。理想と現実。陰と陽。主人公と、相棒と。ドンキホーテとサンチョパンサ。ドラえもんとのび太。老人とカジキマグロのような。ドミートリィ、イワン、アリョーシャ。同根であり、かつ別の方向を向いた正三角形のような三つのサンプル。どうしてドストエフスキーはこのような分割が可能だったのだろう? 父と、子と、精霊。キリスト教的な三位一体だろうか? いや、正確には三つではない。スメルジャコフ。あの孤独な非嫡出子を入れて、四つ(または3と1/2)の魂なのだ。それは、二次元の世界を三次元、さらに上の次元に広げるような、科学上の発見にも似た業績のように思えた。
 小説に熱中していると、時々、オーバーヒートのような状態になった。試み、失敗、試み、失敗。小説の中の人物の行動が、堆積していく。時には行き過ぎて暴発し、ついには死に到ることもあるだろうが、それは週間少年ジャンプで言う修行みたいなものだった。教育という言葉でもいいかもしれない。そのことを、学校で教えられないのは、読書が、世界でたったひとりの人間、「自分」の声で読むという行為だからだ。声の質、喋る喋れない、耳が聞こえる聞こえないは別だ。誰かの声ではなく、自己の中で響く声でなければ、読書にならない。それは、パチ屋の中で僕が嘘をつけなかったことと似ているような気がした。
 バランスを取るように、夜はブラームスを聴いた。音楽。それは小説とは別の場所から響いてくる声だった。自分の声ではないのに、響くのだ。これこそが聴覚の特性かもしれなかった。澱んでいたように思えた時間が、流れるように過ぎていった。

つづく
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