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 ゆっくりとほうじ茶を飲んだ後で、僕はサダという人に歯ブラシの新品をもらい、歯を磨いた。それから部屋に戻ってベッドに横になった。
 疲れているのか、全然疲れていないのか、よくわからなかった。だけどやはり疲れていたのだろう。僕は寝てしまった。起きても、窓のないその部屋では時間がわからなかった。ドアを開けて廊下に出ると、玄関から明かりが差し込んでいた。紛うことなき朝だった。
 どこからか、「おはようございます」という声が聞こえた。サダという人が、目の前に立っていた。
「おはようございます」
「昨晩はよく眠れましたか?」
「はい」と返した後で、僕は言った。「あの、ここは、どこですか?」
「日本のどこか、としか申し上げられません」
「そうですか」少なくとも、九州や沖縄ではないだろう、と思う。
「あの、俺はこれしか服を持ってないんです」
「クローゼットに入っている服を自由にお使いください。寒いようでしたら、お申し付けください」
「あの、ここには時計はないんですか?」
「時計?」不思議そうな顔で男は言った。「どうして時計が必要なんですか?」
 何と言っていいかわからずに立ち止まっていると、サダという人は言った。「お腹が減ったら御飯を食べ、眠くなったら眠る。生きるにあたって、時計は必要不可欠の道具ではありません」
 たしかに、と思う気持ちと、釈然としない気持ちが戦っていた。
「あの、タバコあったりしません、よね」僕は言った。
「いえ。ここにはありません。お気持ちは察しますが、お控えください」
 この人は看守か何かなのだろうか? 雪に覆われた世界から隔離された暖かい家。感じのいい看守。居心地はいいが、決して自由ではなかった。

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 がっしりとしたダイニングテーブルには、玄米の入った御飯に、アジの開き、ほうれん草のおひたし、ねぎと豆腐の味噌汁、香の物が並んでいた。スロ生活では、朝食はコンビニの菓子パンやおにぎりなどで済ますことが多かったが、今日ばかりはもりもりと食べた。文句のつけようのない、旅館のような朝御飯だった。
 食べ終わると、サダさんという人は緑茶を出してくれた。濃く、それでいて飲みやすく、これまでに飲んだことのないような気品があった。僕はその肌触りのいい湯飲みの1/3程度を飲んだ後で言った。
「あなたは俺のことを24時間監視しているんですか?」
「監視ではなく、お手伝いさんのようなものと考えてください」
「でも、外には出られない」
「はい」
「どうしてですか?」
「理由は僕にはわかりません」
「でもおかしくないですか? この生活にかかるお金はどうしてるんですか?」
「それも答えかねます」
「ここには俺とあなた、二人しかいないんですか?」
「はい」
「食事の材料は誰が買ってくるんですか?」
「契約している業者が週に一度届けてくれるようになっています」
 そのお金の出所は、わからない。理由もわからない。外には出られない。質問は行き止まりだった。
「僕は何ができるんですか?」
「何でも、ご自由になさってください」
 自由?
 テレビがない、ラジオがない、新聞が来ない、電話がない、インターネットがない、外界の情報を受信する術がないのだった。
 僕がまずしたことは、この家の全貌を明らかにすることだった。僕たちは情報を自動的に受信することに慣れすぎていたのかもしれない。自分の居場所。これだって情報なのだ。
 家の中央にあるのは、立派な玄関だった。そこからT字路のように、廊下が伸びる。玄関の正面にキッチンのついたダイニングがあり、ダイニングに付随するように、トイレと風呂と洗面所があった。設計のことはよくわからないけれど、変なつくりだ。
 玄関側から見て、T字の右腕、左腕、それぞれには3部屋ずつ部屋があり、右の端に僕が昨日寝た部屋、左の端にサダという人の居住スペースらしき部屋があった。窓は玄関の上部にある光取りのみ。階段は見当たらない。外から見た建物の高さは10メートルはありそうだったのに、天井は一般的な家よりは少し高いかなという程度だった。個室が6つに、キッチンとトイレと風呂と洗面所のついたダイニング。一人の人間だけで僕を監視するのは、不可能に思えた。
 が、何かしらのからくりがあるのだろう、僕が何かをしようとすると、サダという人は僕の近くにぴたっと現れるのだった。
「散歩もダメですか?」
「家の中ならご自由に」

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 しょうがないので、僕はひたすら廊下を歩くことにした。T字路の右端から左端までは、僕の歩幅で70歩だった。70センチとすると、49メートル。次に数えた時は80歩になった。廊下が伸び縮みしていない限り、僕の歩幅にばらつきがあるのだろう。10往復。20往復。30往復。1キロくらいは散歩できただろうか。代わり映えしない景色では爽快感はない。
 散歩に飽きて、立派な玄関を眺めると、その重そうなドアに、ドアノブのようなものが見当たらないことに気がついた。外からは開けられるが、中からは開けられないようになっているのだろう。あの呪いのようなリムジンと一緒だ。確かに、これなら一人でも監視できるかもしれない。だけど、それを行うには、サダという人の自由も犠牲にしなければならない。いったい幾らの金を積まれて、こんな仕事を請け負ったのだろう?
 僕は見ての通りのヘタレだが、もし仮に太郎だったら、一戦を交えようとするだろうと思う。勝てる勝てないにかかわらず、あいつならするだろう。サダという人がどれだけの力があるかはわからないが、梅崎さんだったら簡単にこの家を制圧してしまうだろう。ドアノブがなくても、ドアごと破壊してしまうかもしれない。だけどそれは僕の心配することではなかった。ここにいるのは僕だった。僕を相手にするには、これで必要充分の牢獄なのだ。

つづく
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